私がすべてを知ったのは、あの日、色を無くそうとしていたその手をとった時。 貴方のなさってきたこと、なそうとしていること。 その理由、意志、それに至る過程。 貴方が求めた世界のあり方。 その意味。 それは狂おしいほど純粋で、尊くて、その優しさを踏みにじることなど、誰であっても許されないように思えてに私は涙を抑えきれなかった。 この世界は貴方が望んだ世界。 貴方そのもの。 とても穏やかで優しく、あたたかい…… それでも。 それでも、私は。 あなたのいる世界 一年後 1 飛行艇ポートに降り立つと、整列していたブリタニア軍人が一糸乱れず敬礼をした。だがそれよりも目を見張るのは、その最前列に立つ女性の姿だった。 共にこの地にやってきた黒の騎士団員数名もまた整列していく中、その最前列で、招かれ人はわずかに訝しむ。 代表補佐自らの出迎えには、この呼び出しがいかに重いものであるかしか感じられない。 「黒の騎士団C.E.O.、“ゼロ”。急な呼びだてにもかかわらず応じてくれて感謝する」 「いえ。ブリタニア皇帝陛下たってのご要請とあらば、参じないわけにはまいりません」 そう答えれば、彼女、ブリタニア皇帝補佐であるコーネリア第二皇女の顔が曇ったように見えた。だが開きかけた口は、その理由ではなく客人を政庁へと促す言葉を告げた。 護衛として同行していた黒の騎士団員、紅月カレンは、最後まで今回の要請をよしとしていなかった。 「突然、しかも用件は来てから、なんて、いくら皇帝陛下でも失礼極まりないわ。あっちが出向くのが当然でしょう?」 そんな不満と共に、カレンは道中ずっと機嫌が悪かった。それは黒の騎士団を愛するがゆえの憤慨だろうか。それとも、ゼロを軽んじられたことへの怒りか。しかし、 「陛下は、“ゼロ”のみの謁見を望んでおられる。申し訳ないが、団員の方はここでお待ち願いたい」 客室に通された後、そう伝えたコーネリア“皇女殿下”に対してまで敬語を失念して食って掛かろうとしたのはいただけない。 他の団員に羽交い絞めされているカレンを、やっぱり連れてくるんじゃなかった……と少し後悔しつつ、手だけで制する。 「部下の非礼をお詫びします、コーネリア代表補佐」 仮面に覆われたこの頭を下げれば、カレンの憤るような声が聞こえた。が、今回のことを妙に思っているのは自分も同じだった。 「しかし、せめて用件だけは先にお聞かせ願いたい」 「……わからない」 ブリタニア皇族きっての彼女の美貌が、苦く歪む。 「私にも言わぬのだ。ただ、“ゼロ”を呼べと。超合衆国最高評議会の定例会合も十日後に迫っている、ならばその時でもよいのではと言っても、今すぐに、との一点張りだ。……忙しい職務の合間を割かせるのは本当に申し訳ないとは思ったのだが……」 だが、と言葉を繋ぐ彼女は、代表補佐でもブリタニア皇族でもなく、ただの姉の顔をしていた。 「陛下が、ナナリーが、笑ったのだ」 “ゼロ”は、仮面の中で息を呑んだ。 世界を武力で束ね、武力で支配しようとしたブリタニアの若き先代皇帝、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。 敵対した黒の騎士団を排し、各国代表を人質に、力づくで超合衆国――世界のほとんどが加盟する連合国家のすべての要職に自分が就くことで世界を手中に収めたルルーシュ皇帝は、侮蔑と畏怖の念がその身に注がれる中、現れた救世主によって、討たれた。 かつて日本の植民地解放を目指し、ブリタニアに抵抗した黒の騎士団総帥、“ゼロ”によって。 ゼロ・レクイエムと呼ばれたその世界解放の日からもうすぐ一年が経とうとしている。 彼の後を継ぎ、ブリタニア皇帝となったのはまだ幼い少女。ブリタニア第七皇女にして悪逆皇帝ルルーシュの実妹、ナナリー・ヴィ・ブリタニアであった。 車椅子に支えられるその身はか弱くありながら、物腰は柔らかく、その実芯があり、聡明。 しかし、その補佐につく彼女の異母姉、第二皇女コーネリアにはゼロ・レクイエム以降、ずっと憂いていることがあった。 ナナリーから笑顔が消えてしまったことは、“ゼロ”である自分も気付いていた。 各国代表や超合衆国評議会メンバー、世界唯一の軍隊として平和的運用がなされている黒の騎士団の面々との外交の席では、主張すべきところでは主張しながらも、彼女らしい穏やかな振る舞いと物言いを用いることで彼女はとてもうまくやっている。しかし、彼女の以前を知る者から見れば、その場で見せる“微笑んでいる表情”は、彼女本来の“笑顔”とは程遠いものであるとわかっていた。 それを裏付けるように、公の場以外で、ナナリーは決して笑わない。 暗く沈んだ、まるで抜けがら。 花が綻ぶようなあの暖かい笑顔も、その明るさも、彼女は一年前に置いてきてしまったようだった。 『コーネリアお姉様。お願いです。私の、ただのひとつの願いです。今すぐに“ゼロ”と、二人きりでお会いしたいのです』 そして、困惑するコーネリアに『心配なさらないで、私は大丈夫。ただお話があるだけです』 と、ナナリーは笑ったのだという。公務以外では、疲弊した表情を俯かせるばかりだったナナリーが。 「“ゼロ”……これはもはや、私からの頼みでもある」 政庁の廊下を歩きながら、その先を見つめたままコーネリアが言う。 「妹に会ってやってほしい」 斜め後ろに続く“ゼロ”は、答えず、黒い仮面の中で口を結んでいた。しばしの足音の後、コーネリアは再び口を開く。 「ずっと、ナナリーに笑顔が戻ることを願っていた。あの出来事が妹の中で整理され、前を向ける日が来ることを。しかし、先日のナナリーの笑顔には、違和感しか覚えることができない」 規則的にたなびいていた長い髪が、ぴたりとその背に落ち着いた。立ちどまったコーネリアは、苦渋の表情で振り返る。 「ナナリーの用件はわからぬが、この一年、一人で抱え込み、悩み苦しんだ末に思い至ったのがこの要請なのだと思うのだ。どうか、聞いてやってほしい。そしてできるなら、ナナリーを支え」 「私には何もできません」 「“ゼロ”には、だろう。しかしお前なら」 「私は“ゼロです”」 それきり、コーネリアは言葉を重ねようとはしなかった。 苦しげに息を吐き、再び廊下を歩き出す。やがて行きついた重厚な扉。その両脇に立っていた兵が扉を押し開く中、 「……頼む」 そう一言だけ、呟いた。 そこは本来なら屋外かと見紛うほど華やかな室内庭園で、しかし照明は薄暗く落とされていた。噴水の音は心地良い。だが、その周りをぼんやりとしか照らさない明かりのせいで、この空間はひどくアンバランスで不気味だった。 「お忙しい中、お呼びだてして申し訳ありません。お越しくださって感謝いたします、“ゼロ”」 噴水の前にたたずむは、車椅子の少女。現ブリタニア皇帝、ナナリーその人。 彼女は兵とコーネリアに退室を命じた後、閉じられた部屋で、客人に手を差し出した。 薄暗闇の中、にこりと笑って。 「どうぞ、こちらへ」 この足が動かなかったのは、コーネリアの言った通り、自分もその笑顔に違和感しか覚えなかったせいだろう。 「……互いに忙しい身です。ご用件を伺いましょう、陛下」 「そんなに急かないでください。二人きりで話すのは、久しぶりではありませんか」 車椅子の上で、楽しそうに目を細める彼女。 が、こちらが何も言わずにいると、 「本当に、久しぶり」 その可愛らしい顔からみるみる笑顔が削ぎ落ちていった。 「お兄様が生きておられた頃以来だわ」 年端もいかない少女に寒気を走らせてしまったのを、隠してくれるこのゼロの仮面を一瞬ありがたく思った。だが、 「“ゼロ”……いえ、スザクさん」 少女に容赦はなかった。 「私がお話したいのは、スザクさん、貴方です。お顔を見せてください」 ためらったのは、ルルーシュとの約束があったからだ。 己を捨て、“ゼロ”でい続けることが、彼との約束、彼の願い、自分の贖罪――だが。 彼が最も愛した妹が、“枢木スザク”を求めていることを拒否できようか。 兄を殺された妹が、自分が殺したルルーシュの妹が、望むことをはたして拒否できようか。 無言で、自分の頭部に両手を添えた。 取り払われる漆黒の仮面からこぼれ落ちる、ライトブラウンの癖毛。仮面の無い状態で人に会うのは一年ぶりであるスザクは、その決まりの悪さに床に視線を落とした。 「ありがとうございます、スザクさん」 「……ナナリー、きみは」 「お呼びだてした理由は、スザクさんに頼みたいことがあったからです。でも、まずはお話を聞いていただけませんか」 有無を言わさぬ、堂々とした口調。 それは皇帝としての彼女そのものであったが、今目の前にいる彼女に、公の場での微笑みは無かった。 何の隠しだてもない、本当の、ナナリー。 スザクに“ゼロ”の仮面を取るように言ったのも、本質はそこにあるのではないだろうか。 一年。互いに“仮面”の下に封じ込めてきたものを、ここで、全部―― スザクは心の端で覚悟を決めていた。一年前に抱えて生きていくことを決めた罪、そして罰。これから始まるのはその後者なのだと。 その表情のこわばりを、幼い皇帝陛下はその鋭いまなざしで見抜いたのだろうか。彼女の話は、予想だにせぬこんな言葉から始まった。 「私は、スザクさんを恨んではいません」 目を見開くスザクを、ナナリーはまっすぐに見つめ返していた。 「そして勿論、お兄様のことも」 こちらへ、という二回目の申し出に、今度は応えた。二人の距離が近くなった分、座るナナリーの相貌がスザクを見上げる。 「私がすべてを知ったのは、あの日、悪逆皇帝として世界に君臨していたお兄様を、“ゼロ”に扮した貴方が討った、あの時でした」 衆人監視の中、逆賊として処刑されようとしていたナナリーの目の前で、悪の皇帝を討ち取った正義の使者、“ゼロ”。 それがゼロ・レクイエム――討ち取られたルルーシュその人が描いた、世界変革のシナリオ。 「それまでの私は、真実を知った気でいただけでした。優しかったお兄様は実は見せかけ。世界を、たくさんの人を、そして妹の私さえも騙しながら、黒の騎士団を創設し戦の火をばらまいていた復讐者、ゼロ。そして次には世界を武力で支配する暴君……それがお兄様だと、それが真実なのだと、愚かにも人に伝えられるままに信じていたのです」 「それは……でも、事実だ」 「事実と真実は違います」 首を振ったナナリーは、そっと、目を閉じる。 「私を守るために、お兄様のなさってきたこと、そして自らが討たれることによって、世界のためになそうとしていること。その優しすぎる理由。純粋すぎる意志。迷って、抱え込んで、苦しんで苦しんでそれに至った過程。……お兄様が望んだ、世界のあり方……優しくて、誰しもに平等に未来が拓かれている世界」 開かれたナナリーの目には、今までになかった、感情の色が見て取れた。 「私はやっと、あの時になってやっと知ったのです。自分の見てこなかった真実を」 悔しげに揺れる、涙の色が。 「貴方が“ゼロ”に扮してお兄様を刺したのは、お兄様がそう願ったからでしょう? 決してユフィお姉様の仇だからじゃない。お兄様と、お兄様の望んだ世界のため。だからこそ、今も“ゼロ”として世界のために身を捧げていらっしゃるのでしょう?」 目を伏せるスザクに、ナナリーは心得たように微笑む。 「すべての怒りや憎しみを一人で引き受けた暴君。正義の使者をとして彼を討ち、今までその業を背負ってきたもう一人の“ゼロ”」 全部わかっています、と彼女の大きな瞳が言う。 「だから私には、お兄様のことも、スザクさんのことも、恨む理由などないのです」 「ナナリー……」 周囲に利用され、翻弄され続け、ついには最愛の兄を奪われたというのに、両の瞳に優しさを浮かべる少女。彼女を前に、スザクは膝を折らずにはいられなかった。すまない、ごめん、ごめんナナリー。そう力の限り謝罪したくて、しかしスザクは重要なことを失念していた。 「――それでも」 この一年、ナナリーから心からの笑顔が消えていたという事実を。 思い出したのは、彼女から微笑みがかき消えた瞬間だった。 「私は、誰も恨んではいません。それでも、思うんです。お兄様がご自分を犠牲にして創られたこの世界は、あの方が望んだ通りの優しい世界だと分かっています。ただ、それでもっ」 次第に肩を震わせ、語気を強めていくナナリーは、 「それでも私は、思ってしまうんです!」 悲鳴にも近い声で叫んだ。 「どうして今ここに! お兄様がいないのかと!!」 back → ------------------------ |