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 堰を切ったように涙を流す彼女の名を呼ぼうとして、しかしナナリーの止まない叫びに遮られた。
「私は間違っていますか? お兄様の創った世界に、お兄様のいないことが、我慢ならない私は間違っていますか?」
 たじろぐスザクに、彼女はさらに詰め寄る。
「スザクさん、貴方は本当にこれで良かったと思っていらっしゃるんですか? これが最善だと? お兄様お一人を悪にして、葬り去って、これが平和だと! 誰よりも優しくて、誰より世界を愛したのはお兄様なのに、なのに!」
「……それが、ルルーシュの望んだことなんだよ、ナナリー」
「それでも!」
 搾りだすよう泣き叫んだ後、ナナリーは自身の膝の上へとうずくまる。
「……それでも、私は……っ」

 震える肩に、スザクはそっと手を置いた。置くことしかできない、それが辛かった。
 ゼロ・レクイエムのシナリオは、ルルーシュが望んだことだ。彼の願う優しい世界を創り上げる方法であり、多くの人の明日を奪ってきた償いとして命を捧げた彼は、きっと後悔なんて微塵もしていないはずで、誰に決められるでもなく一人一人が自分の足で歩いていけるこの世界のありように、満足すらしているはずだ。
 同じように自分も、それを受け入れた。ルルーシュを手にかけること、そして枢木スザクとしての自分を葬って“ゼロ”として生き続けることが自分の罰。
 そして一年。世界はルルーシュの願い通りの姿をしている。

 でも、ルルーシュ。
 きみのシナリオには、一つだけ誤算があったのかもしれない。
 ナナリーが、幸せじゃない。

 どう説けば、どう伝えれば、彼女の涙は止まるのだろうか。
 ……いや、彼女が今ひたすらに求めている兄、ルルーシュが存在しない世界の中では、何を言ったところで無駄なような気がした。
 でも、放ってはおけない。
 どうすれば、どう言えば、何をすれば、ナナリーは――

「スザクさん」
 その細い肩にやっていた手を、思わずびくりと離してしまった。
 ふんわりした薄茶色の髪が動いたかと思えば、真下から淀んだ瞳が自分を見上げていたから。
「私の話を聞いて、どこか変だとお感じになりませんでしたか?」
「……え?」
「お兄様が討たれたあの時、私はすべてを知ったのです」
 それは、どうやって?
 淀みながらも、まっすぐにスザクを射抜くその薄紫の目にたじろぐ。しかし確かに分からなかった。あの時に? 知った? 僕がルルーシュを刺した時に? そう、変だ。ナナリーが情報を得る手段なんて、あの時には、何も。
「!」
 考えているさなか、肩から離して以来宙をさまよっていたスザクの手を、不意にナナリーが取った。
「お倒れになったお兄様の手に、私は触れました」
 それを再現するかのように、両の手のひらで包み込む。
「すると、見えたのです。お兄様のすべてが。お兄様の行動とその理由が、すべて、包み隠さず私に流れ込んできたのです」
 ……いいえ、違う、と自ら訂正する。
「私の意識の方こそが、お兄様のこれまでへと飛び込んでいったのです。そうして私はすべてを、真実を見た」
「ナナリー? 何を言って――」

 ――まさか。
 と想像したことに、スザクは困惑した。
 現実的にはありえない事象、理解しがたい変化、自分はそれを嫌というほど知っている。握りしめた拳に血が滲むほど、噛み締めた奥歯が音を立てて傷つくほどの憎しみと共に、知っていた。
「……ギア、ス」
 すべての理、意思をねじ曲げる、人を超越する忌むべき“力”。

「そうです」
「きみが、何故!」
 問うてすぐ、かつてナナリーを拉致した少年、いや、少年の姿をした者のことを思い出した。V.V.。人にギアスを与えられる彼が、その時ナナリーにそれをしたのだとしたら。
「私にも、分かりませんが」
 そしてV.V.の双子の弟でありギアス能力者であったシャルル皇帝が、その息子、ルルーシュにもしたように、娘ナナリーのギアスに関する記憶に鍵をかけていたのだとしたら。
 確かめようもない憶測を巡らせるスザクに対し、理由などどうでもいいと言うようにナナリーは話を進める。
「ゼロレクイエムのあの時、私はすべてを知ったのです。お兄様のお心と、そして、この身に過去に触れる力があることを」
「……過去?」
「そうです、私の意識が飛び込んだのは、過去。お兄様の歴史」
 こうして、と、ナナリーはおもむろにスザクの手を包み込む。
「手を取ることで、その方のこれまでを見ることができるのです。ただし、一人の方につき、一度だけ」
「僕の過去も、見たことが?」
「いいえ。今から、初めて触れさせていただきます」
「……それが、僕への“頼みたいこと”?」
 尋ねると、ナナリーは少し考え込んだ。
「そう……ですね。思えば、そうかもしれません。本来の頼みは、頼みではなく、命令に近いかもしれませんので」
 薄紫の瞳が、冷たく細まる。一度閉じ、そして。
 再び開いた両目の中に、悪しき翼が羽ばたいた。
「ギアスが成長するのはご存じですか」
 赤く光る瞳、その能力がこれまで招いてきた惨劇への嫌悪から思わず手を引こうとしたが、ナナリーはそれを許さなかった。
「私は今からスザクさんの歴史に触れます。それは、スザクさんの意識、心そのもの。それを、私は過去へと飛ばします」
 え?
 今までで最も理解が追いつかず、スザクは動きを止める。
「貴方は、一度通り過ぎた時間を生き直すことになります。そこで、創り直していただきたいのです。ゼロレクイエムの実行されない世界を」
 ぞわりと、体の内側を撫でられた感触がして目を見開いた。ナナリーに、赤い目の中の翼に心臓を絡めとられているようで顔が歪む。
 が、手を振り払うことはできなかった。
「……スザクさんは、私に謝りたいと思っていらっしゃるんですね。私から、お兄様を奪ってしまったことを。ならば」

 ナナリーを拒否する?
 ――僕に、そんなことをする資格は。

「ナナリー・ヴィ・ブリタニアが命じます。枢木スザク。どうか、私に、お兄様のいる世界を……!!」

 赤く輝くナナリーの瞳が一気に遠ざかる。彼女と手を握っているはずなのに、薄暗かった室内庭園よりも、もっとずっと暗い闇へと引きずり込まれていくようだった。




「申し訳ありません、スザクさん」
 タイルの上に横たわるスザクから、ナナリーは手を離した。
 薄い紫色に戻った瞳が、意識の無い彼を見下ろす。言葉通り、彼の意識はここには無い。過去の時間へと行ってしまったのだ。
「私のギアスは、自分には作用しないんです」
 自分の右手が右手を叩くことができないように、自分の意識が、自分の意識に、触れて、押し出すことはできない……
 だから、貴方に。
 私への負い目という弱みを突くようなやり方になったとしても、最もお兄様に近く、お兄様を理解している貴方にお願いするしかなかったのです。

 でなければ、私は今すぐにでも。
 お兄様のいないこんな世界なんて、この手で壊してしまう――

 一筋の涙を伝わせながら、ナナリーは乾いた笑みを閉じられた扉へと向けた。
 ブリタニア皇帝が“ゼロ”を意識不明にしてしまった今、本当に、この世界は壊れてしまうかもしれないけれど。
「申し訳ありません、お兄様」
 でも、私は、この世界に価値など見いだせないのです。

「申し訳ありません……」
 かすれた謝罪の声が、何度も、何度も、薄暗闇に溶けた。




 瓦礫の上に、倒れていたらしい。
 目が覚めてすぐ体を起こしたスザクは、その身と、頭の重さに小さくうめいた。その声が、くぐもる。顔に触れようとして分かった。仮面……いや違う、防毒マスクをつけているせいだ。
 ついでに視界は、暗視スコープ越しだった。浮かんでいる数字は位置情報のようだが、それだけではよく分からず、スザクは現状を把握するためにゆっくりと辺りを見回す。

 ナナリーは……

 いなかった。それどころかここはブリタニア政庁でもない。傍にある架線から、どうやら地下鉄構内のようである。暗さはあの室内庭園と似たようなものだが、手入れされず放棄されて久しいこの様子は庭園との大きな差だ。
 そしてこれも大きな違い。自分は、漆黒の“ゼロ”の衣装を身にまとっていなかった。
 覚えがある。これはかつてブリタニア陸軍歩兵部隊に支給されていた装備だ。これを着用していた頃のことを思い起こして、嫌な予感がし、スザクは手探りで全身をあらためた。
 ……やはり、銃を携帯していない。
 かつてこれを着ていた頃、自分は銃火器の携帯を許されてはいなかった。ブリタニアに忠誠を誓い名誉ブリタアニア人という身分になったといえど、出自はその国に負け、植民地となった日本……いや、エリア11。イレブンと呼ばれ蔑まれる劣等民族に、そう易々と権利は与えてくれないのだ。

 しかし、それはすべて、二年前の話で――

 不意に気配を感じ、振り返りざまに構えた。
 しかしそこにいたのは、同じ歩兵部隊の装備を着た軍人だった。
 人。
 何か聞けるかと思い声をかけるも、軍人はすぐに視線をはずして行ってしまった。その態度に眉を寄せるも、仕方ないか、とスザクは諦める。

 僕と同じ部隊にいたのは、皆、元日本人の名誉ブリタニア市民だった。仲間よりも先に功績を上げて、早くこんな不遇な環境から抜け出したい。彼もそんな強い意思を持って、任務に当たっているだろうから――

 自分でそう考えながら、一方で心のざわつきが大きくなっていくのを感じていた。
 こんなことは……ありえない。信じがたい。
 だけど、これは……この状況は。

 廃棄された地下鉄。銃を携帯していない歩兵装備の自分。さらに確たることには、さっきの彼も装備していた防毒マスク。
 スザクは走り出した。
 体と頭の重さを振り切って、ただ心に広がるあやふやな疑いをはっきりと形にせんがために走り続ける。そして、見つけた。

『貴方は、一度通り過ぎた時間を生き直すことになります』

 ナナリーの言葉が、プラットホームの駅名表示板を前にしたスザクの脳裏に蘇る。
「シンジュク、事変……」
 呟いて、立ちつくす。

 ――ここからやり直せということなのか、ナナリー。




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