1 板チョコをかじる少年は親友





 親といた時の事はあまり、いや、全然覚えてない。
 思い出したくない嫌な記憶は、忘れてしまえる。人間とはそういう便利な機能を持っているのだ。まして俺のその記憶は、5つまでの事。親の顔どころか髪の色すらさっぱりだ。
 それでも、記憶が無くとも自分が辿った経緯だけは、記録を読んで知っていた。

 両親から虐待を受けていた、とある子どもがイギリスにいた。暴力を伴う虐待ではない事は、今、十四になった俺の体が物語っている。傷跡はどこにも見あたらない。聞くに、食べ物を与えたり風呂に入れたりといった、養育義務を放棄する類の虐待だったようだ。
 両親と引き離された子どもは、病院へ搬送された後、回復を待って児童保護施設へと入れられた。国営の、地味で事務的な所だ。そこで子どもは二年を過ごし、昔の事などすっかり忘れてしまった頃、一人の初老の男が施設を訪ねてきた。
 そして子どもは、その男が責任者を務めるウィンチェスターの養護施設へと引き取られた──


、何やってんだよ」

 明るい声に、俺は顔を上げた。
 すぐ横の大きな窓から、爽やかな日差しが降り注いでいる教室。その開けっ放しのドアの向こうで、一つ年下のコーサが笑顔で手招きをしていた。
「サッカーやろうぜ、サッカー!」
 俺は机に座ったまま、窓の外を見下ろした。院の、芝生が綺麗に広がる庭では、既にいくつかの見知った顔がボールを追いかけている。
 その中でも特に一人、同い年の少年を見つけると俺は椅子から立ち上がった。
 コーサを伴い、午後の、日差しがきらめく教室を後にした。


 自分の本当の名前は覚えていない。資料では見た…が、今の俺には関係無かった。
 ワイミーズ・ハウス。
 ここでは、俺は""と呼ばれている。






「殺人ー…シュウッ!」
 かけ声と共に少年が蹴ったサッカーボールは、目印として帽子を置いて作ったゴールではなく、それとはてんで違う方向にいたコーサへと直行した。
 ガツンッ
 顔面にクリーンヒット。
 ボールは力無く宙に浮き、鼻を赤くしたコーサは白目をむいて芝生に倒れ込んだ。
 …これじゃ、本当に殺人シュートだ。

「わーっ! コーサが気絶したっ!」
「先生、先生ー!!」
 わたわたと騒ぎ出す他の子達にコーサの事は任せておいて、俺は、ゆるく跳ね返ってきたボールを悠々と膝でトラップした、殺人シュートを放った張本人へと歩み寄った。

「メロ」
 こちらに気付いたその少年から、ボールが軽く逸れた。
「ゴールあっち」
 俺が"メロ"と呼んだ少年は、地面に跳ねたボールを踏みつけると、
「悪いな、ノーコンなんだ」
 と、肩をすくめてみせた。
 悪いと口では言っているが、とてもそう思っている風には見えなかった。靴底でボールを弄び、すくい上げて胸でトラップする。そうしてリフティングを繰り返す間ずっと両手をポケットの中に突っ込んでいる器用なメロを、俺は手を腰にやって睨んだ。
「わざとだろ」
「ちょっとドライブがかかりすぎたな……そらっ!」
 ボールを浮かせ、ボレーシュートを放つ。微かに右に弧を描いて綺麗にゴールに吸い込まれていったボールには俺は目もくれず、ずかずかとメロに近付くや否や、その長袖Tシャツの襟首をぐいっと掴んだ。
「何だよ……ちょ、おい!」
 そのまま無言でメロを引っ張っていく俺の前方では、コーサが先生に抱えられ、周りに他の子達を引き連れながら院の中へと運び込まれていこうとしていた。それを追うように、俺も十字架をたたえた、煉瓦造りの建物に入っていく。
「おい、! 痛いな、離せ!」
 メロの抵抗をもろともせず、俺は医務室へと突き進む。

「離せよ!」
「メロ」
 俺は振り返らずに、言った。
「悪い事したら、ごめんなさい。これ常識!」






「あー、最悪」
 机に足を投げ出して、メロがぼやいた。
のせいで一時間大目玉だ。最悪」
 じろり、と睨んできたメロに、俺はベッドの上から睨み返してやった。
「何で俺のせいだよ。ボールぶつけたら謝る、当たり前だろ」
「はっ、サッカーだぞ? ボールを追うゲームだぞ? フィールドにいて顔面に喰らっちまう方がヘボなんだよ」
 メロは悪びれない。さっきまでの説教一時間でも同じような事を言って反抗したり、最後の方には大あくびさえして施設の先生を呆れさせていたが、俺までそうやって怒るのを諦めるわけにはいかなかった。
 ここは俺の部屋で、今メロが土足を乗せているのは俺の机なのだ。

「メロ」
「あ?」
「足」
「お前がこの机使ってるのなんて、見た事ないね」
 ははっと甲高く笑いながら、スニーカーのかかとで机を蹴る。その態度に思わず立ち上がり、俺はベッドのスプリングを活かして飛びかかった。
「このヤロ、やめろっての!」
「おっと!」
 読んでいたメロは、椅子から机へひらりと移った。
 パキッ
 メロの歯が、軽快な音を立てて板チョコを折る。トレードマークとも言える程のメロの好物だが、それがまた俺の神経を撫でた。

「…だから、俺の部屋で食うなっつってんだろ!」

 チョコのくずが、銀紙の欠片が、いっつもいっつもそこいらに落ちてんだよ!!
 再び飛びかかったが、それもまた、あっさりかわされてしまった。
 勢い余ってペン立てを倒した俺を見て、へへっと笑みを浮かべるメロ。また板チョコに歯を立てようとしたその瞬間に、余裕面を消し去ってやるべく俺はタックルをぶちかました。

 ガッシャーンッ

 ここは施設の一室。
 左右にも、そのまた横にも、廊下を挟んだ向かいにもこのワイミーズ・ハウスで暮らす子どもの部屋があるが、大きな物音を訝しんでは出てくる者は誰一人いなかった。日常茶飯事だからだ。
 またの部屋だ。
 またメロだな。
 きっとそんなため息があちらこちらで漏れているだろうが、お構いなしに、俺とメロの取っ組み合いはしばらく続くのだった。
 いつものように。




 片づけは嫌いだ。特別キレイ好きでもない。
 だが自分の部屋くらいは、知らない間に靴下にチョコレートの染みができたりしないのは勿論、こうやって本やらノートやら譜面やらが足の踏み場が無いくらい散乱していたりはしない程度には整頓しておきたいものだ、できれば。
 俺は中身がほぼ零れ落ちた本棚に、メロはひっくり返ったキャスターチェアに、それぞれもたれかかって息を荒げていた。

「あー、くそ、痛ぇなちくしょう」
 首筋に絡むように切り揃えた金髪も、俺にひっつかまれて今やボサボサ。そういう俺もきっと短い黒髪は埃だらけなのだろうが、ふと、それを払おうとしてやめた。
 ボサボサ髪のまま、メロが一枚の紙切れを拾い上げていた。
「新しいのか」
 メロが二本の指でつまみ上げた紙が、窓から差し込む夕暮れの光に照らされ、透き通る。裏からそこに書かれている五線譜と音階を読み取って、俺は頷いた。

 荒れた室内を、メロは見渡した。空き巣に入られたようになっているが、部屋自体は狭いので目的の物はあっけなく見つけられたようだった。机の脇に横倒しになっていたギターを引っ張り出すと、メロは片手でこちらへ放り投げる。
 聴かせろ、という事だった。


 派手な物音の後、静まった空気の中にたどたどしいギターの音が流れるのも、隣近所の部屋の子達からしてみれば恒例の事なのかもしれなかった。
 楽器を弾くのは、上手くない。
 指先を動かすより歌う方が性に合っていると自分でも思うが、それでも「歌を作るのには弾けた方がいいだろ」とある人に言われ、こうして少しずつ練習している。
 ゆうべ思いつき、ギターと同じく慣れない五線譜に書き起こしたフレーズを弾き終わると、パキッ、と板チョコの音がした。
「へたくそ」
 これも恒例。
 俺は口を尖らせてうるせー、と拗ねた。

「今度は歌、つけろよ」
 板チョコを割りながら、ベッドに座ったメロはそのまま寝転がる。仰向けに組んだ足は土足だったが、俺はちょっと睨んだだけで何も言わず、弦にかける指を確認した後、息をスッと吸い込んだ。


 *


 ワイミーズハウス。発明家キルシュ=ワイミーがある目的をもって創設した児童養護施設に、歌声が響き渡る。
 声変わりの狭間で揺れる、どこか不安定で繊細な声。けれども聴く者をすべからく振り向かせる魅力を持つ、深みを帯びた音色。
 メロは目を閉じた。


 *


 一つ下の階、静まりかえったプレイルームに、十段重ねのトランプタワーが組み上がろうとしていた。灰色の癖毛を持つ少年は、二枚のトランプをタワーてっぺんに据えようとして、手を止めた。歌が、聴こえてきた。
 トランプを持ったまま窓辺に寄り、開け放つ。風がタワーを吹き飛ばしたが、気にしなかった。
 ニアは目を閉じた。






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