5 静寂と雨音は安らぎのメロディ
片手にトレイを抱え、木製の扉を二回ノックした。
アルミ食器に注がれたスープが波立ったのを見て、慌ててトレイを両手に持ち替えると、今度はパンが滑って落ちそうになる。そうやってしばらく一人でおたおたしていたが、その間、部屋の中からは何の声も返ってこなかった。
ワイミーズハウスの部屋は、どこも鍵はついていない。が、メロは勝手に金物屋で買ってきた施錠器具を付けていた。別に見られて困る物があるわけではなく、これは単にメロの反抗心の表れだ。
掛かってたら困るな…
不安に思いつつ、俺はおそるおそる横に長細いノブを下げた。
更にゆっくり、引くと──開いた。
そのままゆっくりと引き開けた部屋の中は、真っ暗だった。
正面の窓にはカーテンは引かれていない。が、曇天の薄明るさでは部屋の物全てを照らすにはかなり頼りなく、目は自然と、唯一の光源である机のライトスタンドへと引っ張られる。
目に悪そうなオレンジ色の光が、ペンを握るメロの金髪を毒々しく染めていた。
…やっぱり、メロ、寝てない。食べてもないんだ。
廊下の光を取り込めるようにドアは開けっ放しにして、部屋の中へと歩を進めた。三階には、俺達以外誰もいないらしい。ここには窓を叩く雨音と、芯が折れるのではと思う程乱暴に文字を書き付けるペンの音以外、何も存在しなかった。俺はその音を遮るように、わざと金属音を鳴らしてトレイを机に置いた。
「昼飯」
返事は無いだろうなぁと思っていたが、俺の想像を超え、メロはペンを止める事すらしなかった。
分かる、分かる。
メロを突き動かしてる理由も、その思いも。
だけど──
「…っ!」
俺にペンを取り上げられた瞬間、メロの頭が上がった。ライトスタンドに照らし出される中、その鬼気迫る表情が吠えた。
「何だ!」
「食べろっつってんの!」
俺も負けじと吠え返した。寝食忘れて勉強するのが今のメロの意地かもしれない、だけどそれなら、こいつに飯を食べさせるのも俺の意地だ!
「食べなきゃ頭も働かないぞ! 俺より頭良いんだからそれくらい知ってんだろッ!」
俺の剣幕に面食らったように、メロは目を見開いた。
スプーンを使わず、食器を直接持ち上げてズッとスープを流し込むメロを、俺は本を積み上げた即席の椅子に腰掛けて眺めていた。
そんな俺を、食器を傾けたままメロはわずらわしそうに見る。置いて、今度はパンを掴んだ。
「…見張ってなくても、食べる」
「別に見張ってねーよ」
「?」
パンに噛みつきながら首を傾ぐメロに、俺は自信たっぷり、笑顔で言った。
「誰かと一緒に食べる方が、食欲が出る。って、先生が言ってた」
メロは呆れ気味に肩をすくめた。歯でパンを食いちぎり、数回噛んで、スープで流し込む。この分なら全部食べてくれそうだ、と俺はようやく安心し始めていた。
メロの部屋は、普段の人を食ったような態度や行いからは想像も出来ない程、書物に溢れている。
「量子暗号」「帝国主義とナショナリズム」「ベイズ統計学」……どれも俺には難しく、そしてどれにも読み跡がたっぷり付いていた。それはそのまま、メロの努力の跡だ。
薄暗い部屋に積まれた本の輪郭をひとしきり見渡した後、俺は机に視線を戻した。
今はスタンドの灯りの届かない所によけられている、分厚い参考書とノート。何の勉強をしているんだろう、とタイトルに目を凝らそうとした途端、その参考書にメロの手が重なった。逆の腕が、乱暴にトレイを押しのける。空の食器が暴れた音に俺が驚いている内に、机には元通り、参考書とノートが広げられてしまっていた。
「持ってけ」
暗に、出て行けと言っているのだ。メロの目は両方とも、既に本に注がれている。もう用は無いだろ、邪魔だからさっさと持って出て行け。前後を取っ払った短い言葉と無愛想な態度で、メロは言いたいのはそういう事だ。
俺は黙って、とりあえず、軽くなったトレイを持ち上げた。
少し遠くなった雨音と、参考書をめくる音。それが支配するメロの部屋に、邪魔者のように響く食器の金属音と、俺が椅子から立ち上がる音。けれどそれから何の音もしなくなったのを訝しんだのか、紙をめくる音が止まった。
雨音だけになった部屋で、俺は黙って、佇み続けていた。
まだ何か用か?
そう威圧するように睨むメロを見た俺は、やっぱりこのまま戻るわけにはいかない、そう意を決して、トレイを自分が座っていた本の上に置いた。
「徹夜したんだろ、昨日」
「あ?」
「寝てないんだろ」
さっきニアは心が読めるのかと思ったが、メロもまた頭がよく、俺の事なんか大抵お見通しだ。だから俺が何を心配しているかなんてきっと理解した上で、だけど意を介さぬ風にメロは鼻で笑った。
「八時間睡眠のお前じゃあるまいし、一日や二日寝なくても余裕だ。眠気覚ましにはコイツがある」
引き出しから現れた食べかけの板チョコを、俺は敵のように睨んだ。
「…一日二日じゃ、ないだろ」
その目を、メロに移す。
「明日も、明後日も、そん次も、放っといたらずっとずっとだろ?」
メロがうざったそうに顔をしかめたのが分かったが、構わず続けた。
「だから言ってんだよ。俺が言わないと、お前めちゃくちゃ無理するから」
無視するように机に向かい直したメロを、椅子の背もたれを掴んで振り向かせた。それが彼の神経にどんなに障るか、分かっていても。
そう、分かってる。もう何年も、友達やってるんだ。
「…分かる、分かるよ。お前が何でこんなに頑張るのかって、それはよく分かってる、けど……無理して身体壊したら、それこそ元も子も」
俺の溢れ出る説得は、遮られた。
静寂を突然ぶち壊した激しい物音によって。
本の山を崩した蹴りは、きっと苛立ちが繰り出させたのだろう。上に置いていたトレイは雪崩に飲まれ、激しく床にぶち当たる。弾けて音を立てる。カラカラと、食器が転がっていく。
跳ね上がった心臓を落ち着かせるようにそれを見送っていた俺は、
「分かる…?」
そんな、酷く低いメロの声に、ようやく視線を戻した。
「分かる? 何がだ? 何が分かるって?」
メロは、衝動的に動いた足を戻し、椅子に座っている。それなのに俺は、まるで胸ぐらを掴まれているような心地に陥り、硬直してしまった。俺を見るメロの表情はそうさせる程鬼気迫っていた。
「お前に、俺の何が分かるって言うんだ、俺の──!」
それ以上、メロは言葉を続けなかった。
目一杯歪めた顔を、勢いよく俺から引き剥がして机に向き直る。乱暴なため息が、荒々しくめくる紙の音の中に消えた。
…分かんないよ。
俺はメロじゃないし、メロ、勉強とかニアとの事は全然俺に話してくれない。
だから分かるわけないだろ…!
口をつきそうになった言い返しも、崩れた本を見てしまうと喉からは出て来なかった。
静寂が、再び乱暴に壊れてしまうのを躊躇したのかもしれない。
結局、俺は口を閉じて、極力音を立てないように食器を拾い上げようとした。
フローリングの上でそれはとても難しい。やっぱりカツンと鳴ってしまい、しまった、と身をすくめた。けれど──
風向きが変わったのだろうか。再び窓を激しく打ち始めた雨音に、金属音の余韻などあっけなく消し去られてしまった。
顔を上げる。メロの向こうの灰色の空を見る。
痛いくらい、雨は窓を揺すっていた。
分かってた。
昼間は俺達と一緒にサッカーをしたり、気の向くままにいたずらにふけっているが、夜、メロはほとんど一人でいる。それはただ"勉強をしているから"じゃなく、"それを見せたくないから"なのだと、俺は眠る前によく思っていた。
メロが頑張るのは、その努力を褒めて欲しいんじゃない。メロが欲しいのは結果だ。そしてその結果を認めて欲しい、だから一人で、頑張るんだ。
そんなメロが、「分かってる」だとか「心配」だとかの言葉を求めていない事くらい、俺は分かってた。
でも。
…でも、でも。
トレイを抱えたまま、俯いていた。
俯いたまま、俺は、そうっと息を吸い込んだ。
「……"淀んだ空"」
しばらく黙っていたせいか、最初の音は酷く震えて、雨音と静けさに遠慮をしたせいか、小さく絞った声は音程がなかなか定まらなかった。
「"庭を濡らし 水たまりをボールが泳ぐ"」
それでも、メロには聞き覚えのある音階だったはずだ。
「"激しい風が揺さぶる窓に 俺は"」
いっそう強く窓ガラスが鳴り、俺は音を区切る。身を縮ませ、トレイをぎゅっと握りしめる。風が弱まったのを聞き届けてから再び、息を継いだ。
「"俺は ただ手を置くしかできない"」
心配するしか、できないよ。
「──てっ!」
メロがいつの間にか後ろに立っているのに気付いたのは、その蹴りを背中にくらった後だった。
本の山へ突っ伏した俺の手から、自動的に食器が派手にぶちまけられる。近所迷惑な音がやまぬ内に、メロは俺の頭上から短く言い放った。
「出てけ」
空っぽになってしまったトレイだけを手に、俺は力無く起きあがる。本にぶつけた額が少し痛かったが、さする元気もなかった。
結局俺、何にもできない。心配しても迷惑がられるだけだし、俺には結局、痛い程震える窓に手を置くことさえ──
部屋を出て行く前に、最後に「無理するなよ」とまたうるさがられるのを覚悟で伝えようと振り向いた俺は、一転して、ぱちっと目を見開いた。
メロが。
メロが、俺のすぐ後ろにあった彼のベッドに、ごろんと仰向けになっていたからだ。
「メ…」
「うるさい。出てけ、寝られないだろ」
俺の言葉を遮って、言うだけ言って壁側を向いてしまう。でも、メロはそのまま、背を向けたままもう一言だけ続けた。
「…晩飯の時間に起こしに来い」
「う……うん!」
頬と口の両端が引き上げられていくのが、自分でも分かった。無意識に零れる笑顔を、もう自分じゃ止められない。
それでも精一杯唇を噛んで我慢をしながら、俺はさっきまでとはうってかわって手早く食器を拾い上げた。散らばった本もとんとんとリズム良く積み重ねると、部屋を出る間際、結局我慢しきれずに満面のとなった笑みをメロの後頭部に投げた。
「おやすみ!」
*
……め、反則だ。
ドアが完全に閉まった事で、部屋はまた元の暗さを取り戻していた。
明るかったのは、廊下からの灯りのせいか、それともがいたからか。どちらにしても今の自分には、その眩しさは苛立つだけだった。そのはずだったのだが──
歌うのは、反則だ。
がたがたと鳴る窓ガラスも、仰向いて目を閉じると遠くなった。あっけない程眠気はすぐにやってきて、「無理して身体壊したら」というの苦言が正しかった事を知らされた。
──結局の所、あいつには敵わない。
目を閉じたまま、メロは静寂に包まれた部屋の中で呟いた。
「…くそ」
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