プロローグ 「希望ヶ峰記念病院」 0-1 夢と少女 左からの衝撃で、視界がぶれた。 何をされたのか。 頬が熱と違和感をじんじん発するのを無視しなければその答えは簡単だったが、困惑は解けず、俺は頬を打った相手を見る。 セーラー服を着ているから、女なんだろう。 失礼な判断の仕方だが、そうせざるをえないほど彼女の顔立ちは中性的で、髪も清々しいくらい短かった。ベリーショートと言うやつだ。 そんな少年的なセーラー服少女に俺は見下ろされているが、彼女が一体誰なのか、まったく覚えが無い。 彼女が背負っている夕空も、俺がコンクリートに座りこんでいる理由も、そう、無表情の彼女が勢いよく振り抜いた腕の意味も、引っ叩かれてなお、まったくもって分からないでいる。 困惑を抱いたまま見上げた彼女は、俺と目が合うとかすかに口を開いた。 聞こえない。 人を平手打ちしたわりには感情のかけらも見えない平坦な表情は、縁の無い眼鏡と相まって冷たい印象を受ける。 怒っているのだろうか。 俺はなにか責められているのだろうか。 だが、聞こえない。 その声を聞くことのない内に、彼女のセーラー服も短い髪も、眼鏡をかけた無表情も、オレンジ色の夕焼けと共に黒く塗りつぶされ、俺の視界は真っ暗に閉ざされて―― いつしか俺は、天井を見つめていた。 まだ夢うつつで眺めるベージュの暖かい色味は、そのまま壁にも続いている。それらには染み一つ無く、ダークブラウンの木材の縁どりと合わせると実に品の良い内装だ。 綺麗で、広い、見覚えの無い部屋。 やがて意識がはっきりし始めた俺は、眉を顰めながら上体を起こした。 どこだ、ここ……? 疑問と共に、まだ開ききらない両目を強く揉む。そのあと手は無意識に頬へ移った。 夢見が悪い。 人生で初めて異性に平手打ちされるという経験をしてしまったが、そんな夢の苦さより、今自分が直面している不可解さの方がよっぽど先に立った。 掛け布団もかぶらず寝ていたこのベッドも、えらく意匠に凝った高級感溢れるものだ。サイドテーブルも、クローゼットも、自分のスニーカーが揃えて置かれた床も同じように美しい木目が刻まれている。 だが、どこのホテルのスイートだ? と疑うことはなかった。 ふかふかの枕の上方に、特徴的なプレートが取り付けられているからだ。 名前の書かれた紙が差し込まれるであろう溝に、コンセントが二つ、そしてコードの先に呼び出しボタンのついた機器、いわゆるナースコールが引っ掛かっていることで、否応なくこの部屋の正しい呼び名が俺の頭を過ぎる。 病室。 だとしても、この部屋の異様さの説明にはならなかった。 俺の眉間からまだ皺がとれない理由は、ナースコールよりももっと見慣れない存在にある。 本来なら窓があるべき位置に張られている、分厚い鉄板だ。 大きなネジでがっちり留められているその厳重さがどうにも気持ちが悪く、俺は不意に、こんな場所に一人きりであることに不安を覚えた。 「……逆巻?」 ほんの少し期待した返事は無い。 急に重苦しく感じ始めた静けさの中でいくら記憶を遡ってみても、最後に覚えているのは逆巻出流(サカマキ・イズル)という幼馴染みの姿だった。 一緒にいたはずだ。 今日は四月七日。 これから三年間の高校生活を過ごす学園へ、俺たちは連れ立ってその門をくぐったのだから。 * 私立希望ヶ峰学園。 私立高校という位置づけながら日本政府公認の下、各分野でめざましい実績、輝かしい才能を見せる現役高校生をスカウトして育て上げるという、国内でも類を見ない超法規的エリート教育機関である。 ここを卒業すれば、将来は約束されたも同然――そんな風に謳われる学園の目に光栄にも留まった俺と逆巻は、この四月から同校に通うことになっており、今日はその栄えある入学式当日だった。 ……のだが。 家が近所なので共に電車を乗り継ぎ、希望ヶ峰学園の天にそびえ立つような校舎に揃って足を踏み入れたはずの逆巻の姿は見当たらず、入学式に参加した記憶もないまま、こうしてグレードの高そうな病室で目を覚ましたのはどういうわけか。 事情を聞こうにも誰もいない。 ナースコールが目に入るが、学園に訪れた服装のままでいる俺が入院患者だとは思えなかった。試しにベッドから降りてスニーカーをつっかけてみてもどこか怪我している様子はないので、看護師を呼ぶより自分で人を探した方がいいだろう。 ただ、体はいやにだるかった。 頭もぼうっとして重い。寝起きのせい、だけだろうか。 スニーカーを履きがてら足首を回してみる。次に、大事な手首も伸ばしたり捻ったりして調子を確認するが、何せ全身に倦怠感がのしかかっているので怪我は無くとも良好とは言えなかった。 入学式の後もオリエーテーションやら入寮する部屋の片付けやらで忙しいだろうから練習はできないものと思っていたが、これは無理にでも時間を作ってストレッチとランニングはした方がよさそうだ。 それに付き合ってもらうためにも、とにかく逆巻を捜すことにした。 校舎に入った後のことも、俺は何故か何一つ覚えていないが、一緒にいたあいつに聞けば分かるはずだ。 まさかとは思うが貧血か何かで倒れて運ばれたのか、車がアクセルとブレーキを踏み間違えて校門に突っ込んできたとかそういう事故に巻き込まれたのか、はたまたこの物々しい部屋を見るに、学園に恨みを持つテロリストによって誘拐でもされたのか…… などと突拍子もない想像を数歩の内に巡らせながらドアに行き着いた俺は、そこにドアノブがないことに一瞬戸惑うが、ああ、やっぱり病室なんだなと納得した。 横にスライドするタイプの扉。それに鍵はかかっておらず、するすると開いた先は病室と色合いを同じくした上品な廊下につながっていた。 ……鉄板で、台無しだけどな。 病室のドアの真正面の壁で、それは存在を主張していた。 右から左へ廊下に沿ってずらりと、やはり窓の代わりとおぼしき所に鉄の板が並んでいるのを見ると、いっそそういうデザインなのかと自分を納得させてしまいそうになる。 ともかく外へ出た俺は、廊下を左へ進むことにした。 右はすぐ突き当たりで、そこにあった赤いドアも施錠されているようで開かなかったためだ。 鉄板さえなければ、やはりここは病院そのもののようだった。 点々と並ぶスライドドアと、そこだけ途切れるように設置されている木製の手すり。それを軽く撫でながら進む俺は、誰もいない空間へ声をかけてみる。 「あー、すんません、誰かいませんか」 「にょっ!?」 妙ちきりんな声に思わず足を止めてしまった俺は、通路の先を凝視した。 長い廊下の先でよくは聞こえないが、『にょっ!?』 に続いて人の話し声がする。 やがて角から、小さな人影が飛び出した。 「いたー!!」 まだ驚いて立ち尽くしたままの俺へと、その小さな物体はぱたぱたと走ってきた。 女の子だ。近付けば近付くほど小さく見えたのは遠近法のせいだけじゃなかったのだと分かる、カーキ色のモッズコートに着られている女の子だ。 「今、ちょうど誰か探しに行こうって言ってたとこなんだよ! すごいね! スズキやっぱ超ラッキーだね!」 テンション高くまくしたてた後、「タカムラはやくはやく!」 と振り返って手招きする。 「ホントだ」 と感心しながらゆっくり歩いてきたのは、遠目からでもデカいと確信できるほど高身長の男だった。 彼を待たず、小さな方がまたまくしたてる。 「ねぇねぇ、ここどこだか分かる? スズキたち入学式来たのにいきなりここにいてよく分かんないんだけど、ねぇねぇキミここの人?」 「……」 チビ少女に返せる答えは何もなかった。 「それ、全部こっちが聞きてーんだけど」 「じゃあ、きみも同じなんだ……」 追いついてきた背の高い男が、落胆を隠さず言った。 「希望ヶ峰学園の入学式に来たけど、校舎へ入ったくらいまでの記憶しかなくって? 気が付いたら知らない場所で目が覚めて、途方に暮れてる感じ?」 「……お前らも、そーなの?」 俺が尋ね返すと、今度はチビ少女ががっくりと肩を落とした。 「うー、また何にも分かんないのかー……」 しかしすぐに、萎れていたツインテールが跳ね上がる。 「でも! 仲間が増えたってことだね! 運命共同体ってことだね! っていうかキミも今年希望ヶ峰学園に入る子なんだよね? 名前なんていうの? 何クンで、何の才能持ってる人?」 矢継ぎ早の質問に俺が言葉を詰まらせていると、当のチビ少女が俺の答えを待たずにパッと右手を挙げた。 「スズキは鈴木夏子(スズキ・ナツコ)だよ! スズキでいいよ! 才能は無いよ! へへへ、スズキはね、抽選で選ばれたラッキーガールなんだ!」 抽選……? 俺が首を傾げていると、背の高い男が説明してくれた。 「希望ヶ峰学園は毎年、一般の高校生から抽選で一人選び出して、その子を強運の持ち主だとしてスカウトしてるんだ。鈴木さんはつまり、“超高校級の幸運”なんだよ」 俺の知る学園の入学資格は、“現役高校生である”、“各分野において超一流である”、この二点だ。さらにそれは自薦も他薦も受け付けてもらえず、学園側の招待を待つしかない。 そんな狭き門に抽選なんていう入学枠があるとは知らなかったが、全国数百万人の高校生からたった一人選ばれたともなると、その強運は並みの高校生を凌駕した一種の才能、と言えるのかもしれない。 「まぁ確かに、ラッキーガールだな」 俺が納得すると、説明してくれた彼は人好きのする顔で笑った。 金髪を無造作に結っていたり、カチューシャでおでこ全開にしていたりと見た目は派手だが、それとは裏腹に穏やかで話しやすい。 「あんたは?」 俺も自然にそう振ると、やはり笑顔で答えてくれた。 俺よりも目算二十センチくらい高いところから。……ちょっと、羨ましい。 「多可村悠人(タカムラ・ユウト)。バスケやってて、学園にもそれでスカウトされたんだ。“超高校級のバスケットボール部員”だってね」 「へぇ……。ポジションは? 友達が確かセンターってヤツだったけど、それよりお前、背、高いよな」 「うん、センターって壁役だから背の高い人がよくやるよね。でも俺は、パワーフォワードなんだ」 「ぱわーふぉわーど?」 声のする方へ視線を下ろせば、ハテナマークを浮かべた鈴木がいた。そんな少女にもノッポは親切だ。 「チームの中で、がんがん点を取るのが俺の役割ってことだよ」 「がんがん? タカムラが? 見えない!」 確かに、こっそり鈴木に同意する。 温厚そうな彼は、点取り屋というアグレッシブさとはまったく無縁にしか思えないが。 「よく言われるよ。試合中はスイッチ入るけど、それ以外じゃすぐびびって緊張しちゃうしね」 今だって状況分かんなくてなんか怖いしねー、と眉を下げる多可村に、心の中で、いやそれくらいがちょうどいいんだきっと、と慰めておいた。 年がら年中スイッチ入りっぱなしの方がおかしいし疲れるしはた迷惑だ。 なぁ、逆巻。 「で、キミは何クン?」 鈴木に顔を覗きこまれ、行方不明中の幼馴染みを一旦頭から消す。 「相馬。相馬成実(ソウマ・ナルミ)だ」 「そうまなるみ……?」 反応したのは同じ運動部系の多可村だった。 「って、“超高校級のリベロ”?」 「あー……まぁ」 自分で、はい超高校級ですと答えるのも何だか抵抗がある。目を逸らして曖昧に濁す、が、その先で視線がかち合った鈴木はバスケだけでなく、スポーツ全般に疎いようだった。 「リベロ? サッカー?」 「いや、バレー」 「ソウマ、踊るの!?」 「踊るか! 球技だ!」 なーんだ、と悪びれず笑う鈴木につい俺の眼つきも悪くなるが、 「新聞で見たよ。スポーツニュースでもやってたし」 「テレビ出たの? すごい!」 褒められ、また居心地が悪くなってうなじ辺りをさすった。 「中学最後の大会で、予選から全国大会まで、自チームのコート内に一度もボールを落とすことなく優勝したって。あれはリベロの相馬あっての偉業だよね。うちの母親企業リーグとか高校バレーのファンだけど、相馬のことも期待の新星だって褒めちぎってたよ。すごいな、本物だー」 「あー……」 面と向かって功績を挙げ連ねられるとなお居心地が悪い。 別に騒がれたくてやってるわけではないのだ。それが取材だのカメラだのに来られるのは性に合わない出来事で、受け答えに疲弊した思い出しか無い。 まあそれも、どうも愛想がなく仏頂面だったせいかだいぶカットされたようだったが。 「ソウマはすごいんだね。だってバレーもサッカーもするんでしょ?」 苦い思い出はにしばし意識を引っ張られていたが、しかし鈴木の突拍子もない不思議な質問に我に返った。 「は? なんでサッカー」 「リベロってサッカーに出てくるんだよ! スズキ知ってるよ! バレーもやるし、リベロもするんでしょ!」 「…………」 「えーと、鈴木、あのね」 多可村は鈴木の勘違いを正そうと働きかけているが、俺はもういいと止めた。 なんかどうでもいいし、自分がそんなにバレーボールの知名度アップには貢献していないんだなと認識すると、むしろそっちの方が気が楽だった。 「それより、人捜してんだ。赤いジャージの奴見なかったか?」 逆巻の特徴を伝えるも、返事は芳しくなかった。 首を横に振った多可村が、おもむろに病室の一つを指す。俺がいた部屋の二つ隣だ。 「俺、そこの病室で寝てて、その後あっちのロビーで鈴木と、あと三人、同じ状況の奴と会ったんだけど、ジャージはいなかったな……」 「三人?」 「ああ、今、上の階を見に行ってる」 「手分けして、何か分かる人とか捜してるの。ソウマも行こ!」 断る理由はなかった。 この二人とは境遇も目的も、この春からクラスメイトという立場までも同じなのだ。 廊下の先は大きく開け、長椅子が何列も並んだそこは確かに“ロビー”と呼べる場所だった。 座り心地の良さそうな革張り椅子に加え、いくつかの観葉植物と、壁にはめ込まれた巨大な水槽が人を退屈させないように空間を彩っている。 小さいがテレビもあるようだ。 水槽付近の壁にかけられた黄色いディスプレイを見上げた俺は、その傍に、思わず眉根を寄せてしまう物を認めてしまった。 カメラだ。 天井からぶら下がったビデオカメラのレンズが、こちらをじっと見つめている。 まるで見張っているように。 行動を監視しているように。 「多可村くん、鈴木さん」 三人の内の誰でもないその声に、ハッとしてカメラから視線を外した。 このキレイな病院には不釣り合いな大きさと無骨さを持ってはいるが、ただの防犯カメラだろう、と思い直して今は声の主へと意識を移す。 何せその女の子も、同じ状況に置かれたクラスメイトかもしれないのだから。 「上の階で四名と合流しました。的目さんが呼んでます」 どこか事務的な報告だが、内容は喜ばしいもののようで鈴木ははしゃぎ、多可村も嬉しそうに了解している。 そんな二人の視線を追った俺は、やがて言葉を失った。 ベリーショートの髪に、セーラー服。 縁無し眼鏡をかけた顔は、少年と見まがうほど中性的で。 人の頬を平手で打ってなお貫いていた鉄面皮が、夢の中とまったく変わらぬ姿でそこに立っていたのだ back → ------------------------ |