プロローグ 「希望ヶ峰記念病院」 0-2 新入生たち 俺は、痛くはないが何となく頬をさすりながら階段を上っていた。 すぐ前をノッポのバスケ部員、多可村と、ラッキーガール鈴木が行く。そのさらに前方を、夢で俺に平手打ちをかました少女が先行していた。 『スズキも合流したよ! ほら、リベロのソウマ!』 チビっ子に無理やり引っ張り出された俺を見て、彼女はその無表情のまま、 『二ノ瀬市子(ニノセ・イチコ)です』 と一礼した。 やはり俺たちの新クラスメイトらしく、自分を端的に紹介する肩書として二ノ瀬は一言こう付け加えた。 『超高校級のデータベースです』、と。 ……ピンと来ない。 超高校級の、何だって? 鈴木が何やら説明してくるが要領を得ず、多可村も加わろうとしたがそれを止めたのは“データベース”本人だった。 『質問は後で受け付けます。今は食堂へついて来てください』 やはり、覚えはなかった。 この女の顔にも、二ノ瀬市子という名前にもだ。 しかし、ならあの夢は何だったんだ? 平手打ちは――さておき。 会ってから夢に見るならまだ分かる。でも会う前に見るのはおかしいだろ? 踊り場で経て、一つ上の階に上がったところで、俺は壁の案内板に気が付く。 “五階”の文字。 この階の見取り図らしき図形。 そして隅に刻まれた、“希望ヶ峰記念病院”という初めて聞く名称。 ……分からないことだらけの現状に、ため息を噛み殺すしかなかった。 “食堂”はかなり大きいようで案内板でもひときわ目立っていたが、それを参考にするまでもなかった。二人の男女が俺たちを待ち構えていたからだ。 「来たわね。食堂はこっちよ!」 仁王立ちしていたのは、鈴木と良い勝負なのではないだろうか、なかなかの低身長の女子なのだが…… よく張った声のせいか、はたまたその大きなツリ目の目力ゆえか、妙に迫力を感じる女子だ。 「私たちの同級生が四人、食堂に待機してるわ。まだ後四人、建物捜索中の人がいるらしいけど……ん?」 制服を翻して食堂に誘おうとした彼女が、俺を見て向き直る。 「下の階で会ったんだよ! スズキたちの仲間!」 鈴木の説明に、すぐ得心したように頷き、俺に歩み寄ってきた。 「私は的目小夜子(マトメ・サヨコ)。“超高校級の学級委員”として学園にスカウトされたの」 「えっと……相馬成実。バレーボールやってる」 希望ヶ峰に選ばれて入学する生徒は、皆超高校級と称される肩書きをもっている。ならば、少々抵抗があってもそれも付け加えた方が自己紹介としては手っ取り早いだろう。 肩書きなど他人から付けられたただの呼び名であり、いまだすべての高校生を超えたとは思ってもいないが、「超高校級のリベロだ」、と付け加えると的目はへぇ、と感心してくれた。 サッカーの、なんて勘違いはしていないようだ。 「入学式もどうなったか分からない状態だけど、とりあえずよろしくね、相馬くん」 伸ばされた小さな手と握手をして、 「ほら黒田くん、キミも自己紹介!」 そう、的目にどやされた男子に目を向けた。 「あ、う、うん」 ずり落ちた大きな黒ぶち眼鏡から、おどおどとした瞳が覗く。慌てて前に出てきた彼は、緊張に頬を赤らめながら辿々しく名乗った。 「あ、あの、黒田圭介(クロダ・ケイスケ)、です」 「…………」 「…………」 「……え? あー……超高校級の、ってのは?」 「え!?」 またずるり、と落ちた眼鏡を両手を使って不器用に上げ、えーと、と言葉を詰まらせているかと思えば、黒田は突然「あ!」 と声を上げた。 「み、みんなのこと大分待たせてるよね!? 食堂、うん、行かないと、ね!」 明らかに不審さ満点の挙動で走り去った彼は、食堂とおぼしきガラス戸に一度ごちんとぶつかり、それでもめげずに押し開ける。 「ちょっと、黒田くん! 待ちなさい!」 その背中に的目が学級委員チックにしかりつけるも、そのまま消えてしまった黒田にもう! と頬を膨らませた。 「スズキたちも知らないんだよー、クロダの才能」 皆が一様に首を捻るも、黒田が苦し紛れに言った『みんなのことを待たせている』 というのも事実のようだ。 とにかく黒田に倣い、残った俺たちも食堂へ向かうことにした。 案内図で見た通りの広大さを持つ食堂は、鏡のようにきらめく白い床に、同じく白いぴかぴかの長テーブルがいくつも並んでいた。 明るい照明の下、聞いていた通り、四人の同年代らしき少年少女が座っている。それが一斉にこちらを向いた。 鈴木と多可村が四階で俺と会ったように、的目と黒田、それから二ノ瀬は五階でこの四人と遭遇し、全員が“今年度の希望ヶ峰学園新入生”であることを確認したという。 そして全員が――“学園に足を踏み入れたところまでしか覚えておらず、その後なぜかこの見知らぬ建物で目が覚めた”という不可解現象の直中にいることも。 しかしまあ、とりあえずは色んな意味で仲間だということで、俺達は簡単な自己紹介を済ませることになった。 俺の知っているメンバーが名乗り終え、地味眼鏡の黒田がやはり肩書きをはぐらかしたところで、次は食堂にいた四人の番だった。 「じゃあちょっと失礼して」 立ち上がったのは、正直食堂に入った時から気になっていた、派手な女生徒だった。 金髪ピアスといった多可村の派手さとは違う、なんというか……ファンタジックな出でたちなのだ。 紺色の髪にアイドルのようなフリル衣装、猫耳。カチューシャについた、黒い猫耳。 何から何まで現実味の無い格好の彼女は、すらりと細い指で一枚の名刺を手渡してきた。 きらきらとラメの入った、写真付きの名刺にはこうある。 “コスネーム 抹莉” 「“超高校級のコスプレイヤー”、抹莉(まつり)。コスネーム……まぁ芸名だと思ってくれればいいかにゃ」 「コスプレ……」 「この衣装も自作で、頼まれれば人のも作るよ。ぬふふ、見ただけで大まかなサイズは分かるからねー……」 三日月型に細めた抹莉の目に、 「相馬っち……さすが運動部だけあってイイ体してんにゃあ……」 ぞわっ、と悪寒が駆け上がる。 ダメだ、コイツと深く関わるのは…… 「っで、お前は!?」 抹莉の粘っこい視線から逃げるように、隣の大柄な男子生徒に声をかける。つれにゃいにゃー、と言う声は無視することにした。 しかし意識して無視しなくても、男子生徒の肩書きを聞けば、それへの疑問が頭のすべてを占めることになったのだが。 「堤潤太郎(ツツミ・ジュンタロウ)、“超高校級の長男”だ。よろしくな、みんな」 「……は?」 「長男……?」 あちこちから上がる声に完全同意だ。 「ははは、俺も思うよ、長男が才能って変な話だよな。まあ、追い追いでいいさ。これから当分同じクラスなんだしな」 肩書きの理由を聞く前に、半分くらいは納得してしまった。 快活な笑顔とおおらかさは、確かに頼れるお兄ちゃんそのものかもしれない。 「――大丈夫ですか?」 小さな咳と、心配そうにかける声が聞こえた。 苦しそうに華奢な体を震わせる少女の背を、エプロン姿のメイドさんがさすっている。 「ご、ごめんなさい……わたくし、あまり体が強くないもので……あ、自己紹介、ですわね……美芝つばめ(ミシバ・ツバメ)と申します。超高校ゴホッ、級の、令嬢でゴホッ」 「あああっ、もう大丈夫よ、無理しないで美芝さん!」 的目に始まり、皆が競うように咳こむ彼女をいたわる。 それにしても、美芝は“令嬢”と言っただろうか。 いいところのご令嬢……深窓の令嬢という言葉があるが、まさにそういうタイプに当てはまるようだ。華奢、を通り越して土気色の顔とこけた頬は、この建物が本当に病院であるなら今すぐ入院させたいくらいだ。 「あなたで最後ね。名前は?」 的目が促したことで、令嬢・美芝を介抱していたメイドがハッと顔を上げた。 ふっくらした頬を赤く染め、急いで起立し、かしこまる。 「し、失礼いたしました。申し遅れましたが、私、不肖ながら“超高校級のメイド”と呼ばれております、箱崎やちる(ハコザキ・ヤチル)です! 奉仕する立場でありながら、皆様と机を並べさせていただくことをお許しくださいませ……!」 深々とお辞儀をする様も、断って美芝の介抱に戻る姿もまさにプロフェッショナルを思わせた。質素なワンピースとエプロンという服装も、オタクの街ではなく、名家のお屋敷が似合う感じだ。 「これでここにいる全員、自己紹介終わったわね」 指をさしつつ、点呼をとるように人数を確認しおえた学級委員長・的目が、むぅ、と腕を組んで唸る。 「十人か……新入生全員この建物に来させられたって考えた方がいいかもしれないわね。新入生って、全員で何人かしら」 「十六名です」 静かに答えたのは二ノ瀬で――意味もなく俺はどきりとする。 「入学前にネットで記憶した情報ですが、希望ヶ峰学園に選ばれた超高校級の才能を持つ入学者は十六名。つまりこの場にいないのはあと六名ということになります」 そこで二ノ瀬は手に持っているメモ帳に視線を落とす。 「さらに今の自己紹介で得た皆さんの肩書きを消去すると、残りは超高校級のフルート奏者、アーケードゲーマー、調香師、フェンサー、釣り師、陸上部員が残ります。残る六名は、この方々かと」 顔を上げた二ノ瀬は、無表情のままこてんと首を傾いだ。 「これは余計な情報でしたか?」 「ううん! すごいねニノセ! ぜんぶ覚えてるんだね!」 幸運・鈴木に両手をつかまれ、ぶんぶん上下に振られながらも二ノ瀬は淡々と答える。 「はい、見たものは忘れません。ネットで見た画面を、写真のように記憶しています」 「もしかして……瞬間記憶、能力……?」 小さく声を震わせたのは、皆の輪の外にいた地味眼鏡、黒田だった。 「じゃあ……僕の、肩書き、も……」 「……ある肩書きだけは、持ち主の名前が掲載されていませんでした。同時に黒田圭介という名前もどこにもありません。となれば私でも判断が可能です。必然的に、あなたが超高校級のこ」 「ああああちょっと待って待って、折を見てちゃんと言うから待って……!!」 地味眼鏡から発された鬼気迫る迫力に、俺たち全員……さすがの二ノ瀬も、目を瞬かせていた。 そしておもむろにペンをとると、 「記憶しておきます」 何やら書き付けて、それをじっと見つめていた。 瞬間記憶能力。 俺も詳しくは知らないが、会話から察するに、“見たものを、写真を撮影するように脳に焼き付けておくことができる”ということでいいのだろうか。 それを何百枚、何千枚と記憶しているのだとしたら、それは紛れもなくデータベースと言っていいだろう。 でも、黒田のお願いまで、わざわざ書いて見て覚える必要があるのか? というか……そこまで懇願するほど言いづらい才能ってなんだよ!? 「おー? ちょっと見ん間に増えとるやんか」 うやむやになろうとしていた黒田の件を、完全に吹き飛ばしたのは食堂入り口からの足音と声だった。 明るい調子だが、独特なそのイントネーションに皆が視線を引っ張られる。キャップと安っぽいジャンパーを身に付けた男は、それらを浴びても特に物怖じせず飄々と片手を上げた。 「知らん顔ようさんおんなー。これ全員オレらとおんなじ入学式迷子? あ、オレ、由地亘(ユジ・ワタル)。関西でちょっとは名の知れとるゲーマーや。よろしゅーなー」 「ゲーマー……アーケードゲーマー?」 「ん、知っとんの?」 二ノ瀬情報からの推測で口にしただけだったが、由地は真深にかぶっていたキャップのツバを嬉しそうに上げた。 「“Yujiwww”の名前は近畿のどこのゲーセン行っても見れんで。勿論ぶっちぎりのスコアでてっぺん飾っとる。特にガンコンものと格ゲーは……」 きらりと輝いていた目が、つと俺の顔……というか、額辺りをを見て丸くなる。 「……前髪センター分け」 ……それがどうした。 俺の前髪がセンター分けで何が悪い。 「ジブン、あれか。相馬っちゅー奴か。聞いとるわ」 「は? 誰から」 「連れなんやろ。捜しとったで」 由地が示した食堂入り口を、いぶかしみながら窺うと――数秒後。嵐のように飛び込んできた赤い色に俺は目を瞠った。 「由地! テメー知らねー間に先に戻りやがって!! 言っとくけど走ったらオレの方が速いぞ! オマエより先に着いたんだからな!!」 白い床にきゅきゅっとブレーキを掛けて声を荒げるのは、俺が目を覚まして真っ先に捜した人物。 共に希望ヶ峰にやってきた、真っ赤なジャージが目にうるさい幼馴染み、“超高校級の陸上部員”、逆巻出流だ。ようやくの再会だったが―― 「うお、相馬! 捜してたっつーの!! 勝手に消えやがってこのやろー!」 ……この言われようには、そのみぞおちに蹴りを食らわせるしかなかった。 「ぐほっ! うぐ……何すんだ、いってーな!!」 「うるせーよ。こっちも捜してたんだっての」 きょとんとしてみせた後、逆巻はあっけらかんと笑う。 「あ、マジで? ははっ、悪かったな!」 「幼馴染み、見つかったんだな?」 続いて食堂に入ってきた女子の問いかけに、腹を押さえていた手をサムズアップに変えて「ああ!」 と答える逆巻。 喜怒哀楽がくるっと変わる脳天気さに口元がひくつく俺に、その女子生徒はキリっとした切れ長の瞳で目礼した。 「相馬……成実、だったか。逆巻くんから聞いているよ。私は白鷺怜(シラサギ・レイ)。“超高校級のフェンサー”と呼ばれている」 「フェンサー……」 「フェンシングの選手なんだ」 白鷺がするりと撫でたのは、腰に下げた一振りの突剣だった。姿勢正しく、騎士のような凛々しさを纏う彼女にはよく似合っている。 「その剣、ちょーかっこいいじゃん。本物ー?」 白鷺も女子にしては背の高い方だと思っていたが、その頭の上からひょい、と余裕で覗きこんできた女がいた。 「あたし、糸依広海(イトヨリ・ヒロミ)ー。さっきこの子や赤ジャージに拾ってもらったんだ。あたし“超高校級の釣り師”なんだけどさぁ、陸は苦手なんだ、すーぐ迷っちゃう」 白鷺の頭の上でぷう、とふくれる仕草は子供っぽかったが、体つきはその真逆だ。ぎゅう、と圧迫されたのだろう巨乳から逃げるように距離をとる白鷺の表情は苦い。 ……当の糸依は「あれ、どしたのー」 なんてハテナマークを浮かべる無自覚っぷりだが。……というか俺も、じろじろ見るもんじゃないな……。 「ふむ、糸依には及ばずとも、白鷺の乳も十分だと思うがな」 ……ん? 今まで自己紹介し合ってきた誰のものでもない低音ボイスが、遠慮がちに目を逸らそうとしていた俺の上で何かとんでもないことを呟いた気がする。 声の方――俺よりかなり上空をそろり、と見上げると、食堂の照明の逆行の中、じろり、と獰猛な瞳に睨み返された。 怖っ、つーか、でかっ さっきの白鷺よろしく相手から距離をとって見定めるに、例えるなら、でかいドーベルマンが二本足で立ち上がったような男だった。 降り注ぐ眼光はクール。だがその強面と二メートル近い体駆には相手をいつでも叩き伏せられるという余裕しか感じられない。黒いスーツがさらに怖い。 つーか、聞き間違いだな。 こんなやつが乳がどうとか言わないだろ。 なんて訂正していると、ずい、と目の前に長い腕が差し出された。 「佐田寛二(サタ・カンジ)。“超高校級の調香師”だ」 「え……超、講師……?」 「人より鼻がよくてな、香りに携わる仕事をしている」 「あ、ああ……調香、師ね……」 ………… ……香りってキャラとは思えねーけど。 どっちにしろ、乳なんてのは聞き間違い決定だな。 「それはともかく、白鷺も十分大きな部類に入るとは思わないか。私はそう思うが、しかしこの見極めは人によって異なるものだからな……」 ああ、そうだ、今のも聞き間違いだ。 こんなコワモテが真面目に乳の大きさを考察するはずがない。 「っと、みんな自己紹介してんのか!」 じゃあ俺も! と、ただでさえ色味が目立つ赤ジャージ、逆巻がしゃきんっ、と片腕を突き上げてポーズをとり、この場にいる他の十四人の視線を集めた時だった。 ぴん、ぽん、ぱん、ぽーん と、軽やかな音階がノイズ混じりに響き渡り、俺たちは漏れなく顔を上げた。 彷徨った末に皆の視線が行き着いたのは、食堂の奥の壁にかけられた一台のテレビモニター。四階ロビーにもあったそれは、さっきまでは起動すらしていなかったはずだが今は大音量で雑音を流していた。 画面いっぱいに映し出されるのも砂嵐で――やがて、そこに丸っこいシルエットが揺らめき始めた。 『あー、あー、希望ヶ峰学園新入生の皆さん、起きてますかー。院内放送、聞こえてますかー』 舌っ足らずな子供のような、どこかおどけた大人のような。どちらにしても“院内放送”という言葉には似つかわしくない軽い調子の声だった。 ただ、ここにいる十五人の誰もが状況を把握しきれていない今、この放送が貴重な情報源なのは間違いない。 全員が固唾を呑んで待った続きは――全員の目を点にした。 『今から入学式を執り行います。つきましては、至急、大至急! 別棟五階、多目的ホールまでお集まりください。ダッシュだよ、ダッシュ!』 「……入学式、するんだ?」 ぶつん、とモニターが切れた後、まず幸運・鈴木が呟いた。 「だが、ここは病院だろう。案内板にもそう書いてあったぞ」 「今も院内放送って言ってたなぁ」 ドーベルマ……いや、佐田の意見に、お兄ちゃん・堤がほがらかに同調する。 「もしかしたら」 困惑した雰囲気を破るように手を打ったのは、小柄な学級委員長、的目だった。 「入学式前に、みんな意識を無くしちゃったんでしょ? きっと、それで病院に運ばれたのよ。で、予定はずれちゃったけど急遽ここでやることになったのよ!」 「病院で?」 「病院でよ!」 強引さは感じるものの、最もらしい仮説だった。 「そ、そうですね……わたくしも、試験中に倒れて、病院で続きを受けたこと、よくありますわ」 よくあるのか、美芝……。 しかし倒れたにしても、全員一度にっておかしくないか――などと疑問を挙げ連ねていってもキリがないことだった。 「まぁ向こうで説明もあるやろ。やいやい言うてんと、はよ行こうや」 キャップを深くかぶり直した由地の言うことに、反対する者はいなかった。 「あの、申し訳ありません、多目的ホールというのはどこでしょうか」 「別棟ってナニ? ドコ?」 「今いるのが本棟。あちらの廊下の奥から、渡り廊下でつながっているようだ」 メイドの箱崎と鈴木の質問に、フェンサーの白鷺が案内板を示して説明している。 そんな階段横の風景を通り過ぎ、俺は由地やドーベ……佐田といった、遅くまで捜索していて多少は建物の構造に明るい奴らについて廊下を歩いていた。 「あと一人足らんという話だが、放っておいていいものか?」 「放送聞いとったらおんなじトコ行くやろ。来ぇへんかったらそれから捜したらええ」 そんなことを話しながら進む彼らの他では、二ノ瀬の足取りも淀みない。 頭の中に地図があるからだろうか。小柄な体は一定のリズムでセーラー服を揺らしながら、俺のすぐ前を歩いて―― 「なあ相馬」 「へっ?」 少し、声が裏返ってしまった。やましいことは何もないのに。考えてもいないのに。 妙に恥ずかしくて、急に視界を遮ってきた赤い色、逆巻を睨むも、なぜだか顔をしかめるている逆巻はぐるぐると腕を回すことに忙しいようだった。 「なんかよ、体、ダルくねえ?」 「……あー、まあな」 「こんなの初めてだぜ、オレ、寝起きすっげーいいのによ」 体を捻って、ジャンプして、それでも振り払えない倦怠感に耐えかねたのか、 「あああー!!」 数人がびくっと振り返るのも構わず陸上部員は叫んだ。 「走りてえ! 体なまる! 走りてえ!!」 「……俺も」 手首を回しながら同意すれば、パッと逆巻の表情が輝いた。 「じゃあ走るか!!」 「入学式終わったらな」 「よし、終わったらまず二十メートルダッシュ百本な!」 「オリエーテーリングとかあったら、その後だぞ」 「よっしゃ、全力で終わらせて、全力で走んぞ!!」 ぐっ、と拳を握りしめるおさななじみのテンションは、いつものことながら暑苦しいが、いつも通りでホッとした。 見たことの無い場所。聞いたことの無い病院。 初めて会ったはずの二ノ瀬。 会う前に見た、二ノ瀬そっくりの女の夢。 ずっといやな感じがしていた。……ずっと、どこか不安だったのかもしれない。 「相馬」 ようやく再会できた旧知の声に、足を止める。 普段から愛想なしだの仏頂面だのと言われているから顔には出ていないかもしれないが、さっきまでより心に軽さを感じながら振り返った俺を――逆巻は、不思議そうにじぃっと見つめていた。 「……? なんだよ?」 「いや、ちょっと……」 全力陸上少年にしては歯切れが悪い。 眉を寄せて、何だ? と目で問い続けると、うーんと腕を組んでいた 「なんか変だなーって思ってよ」 「何が?」 「いや、オマエが」 ぴくり、と押し込めたはずの不安が反応する。 「……どこが」 「どこって言われても……あーっ、分かんねえっ! やっぱ気のせいかもしんねーけど……うー、気持ち悪いっ」 逆立った髪をかき回すのを見ながら、 ああそうだな、バカ巻の気のせいだな そう片付けたい気持ちとは裏腹に、俺は心に薄く靄が立ちこめるのを感じていた。 俺だって気持ちが悪い。目が覚めてからずっと――よく分からない気持ち悪さだらけだ。 付き纏って離れようとしない、漠然とした、不安。 それが、俺たちの知らないところでもう既にはっきりと形を成していたこと。俺たちに襲いかかるタイミングだけを、今か、今かと見計らっていたことなど、まったく気付けないまま俺は長い廊下を再び歩き始めた。 ← back → ------------------------ |