3. 魔法のある世界
まだ、雪は降り出していなかった。
学生服を脱ぎ、棚に引っ掛けっぱなしのジーンズを手早く履く。窓をちらりと見やり、中に着ていたカッターシャツはそのままに、さらにパーカーを着込むことにした。
降らないにしても、夜にかけてもっと寒くなるに決まってる。
ダウンジャケットを羽織って部屋を出た途端、内飼いのマメシバが尻尾を振ってまとわりつく。何がそんなに嬉しいのか跳ねて飛び回るそいつを無視して廊下を歩いて行くと、
『ん、散歩?』
ちょうど帰ってきた大学生の姉に出くわした。冷たい風にやられたのか、髪もマフラーも乱れまくりだ。
『くそ寒いのに誰が』
『散歩行きたいよねーモモ』
うん、行きたい行きたい! とちょっと声音を変えて自分で続ける姉に呆れつつ、『飯いらねーから』 とスニーカーに足を突っ込む。
『原付? 雪降りそうだから気をつけなよ』
『……分かってるよっ』
イラついてつい荒く返事を返す……が、姉は弟のそんな態度には慣れきったように平気な顔して愛犬を抱っこした。
『モモー、あとでお姉ちゃんと散歩行こうね。こんなツンデレに期待したってダメなんだからね』
『だっ……』
半分開けた扉から吹き込む、冷たい刺激を受けながらも足を止めて振り返る。
「だれがツン……っ」
口を動かしながら開いた目は、真っ暗な室内を映した。
どこだ? なんて寝ぼける必要はなかった。すぐ傍でヴァンが、すーすー寝息を立てていたからだ。
夕食を終え、パンネロ親子が帰ったのが随分前のことのように感じる。
そのあと電池が切れ、が使っているベッドで充電を始めてしまった子供を見ながら思ったのは、このオンとオフの差はモモと似ている、ということだった。我が家の焦げ茶色のマメシバを思い浮かべ、それとは違う白金色の頭に手を伸ばす――
触れる直前に階下で物音がして、反射的に引っ込めた。
「ただいま。まだ起きてたんだ」
階段を上がってきたレックスに、それより先にどうにか上体を起こし終えていたたは「……おつかれ」 と声をかける。部屋主が疲れて帰ってきたというのに、ヴァンにつられてうたたねしていたとはちょっと言えない。
その部屋主が、「あ」 と月明かりの傍で顔を赤らめた。
「俺の服、大丈夫? 着心地とか、悪くない?」
……確かに、持ち主が細身な分、肩回りと腰回りは少々キツイ。が、文句を言う立場ではないので「いや、まぁ、大丈夫」 と返した。
よかった、と安堵する中にやはり照れが混じって見えるレックスに、もう何度も思ったことだが、弟と目元はそっくりだが性格は全然似てないなとあらためて感じた。
悪ガキという言葉がぴったりなヴァンを、果たして兄として操縦できているのかと心配になるくらい控えめというか、頼まれるとノーと言えなさそうで、操縦どころかずるずると甘やかしてるからこそ立派な悪ガキになってしまったのではないだろうか。
「ヴァンは……あ」
その弟を見つけた兄は、しょうがないな、と言いながらも目を細め、未だ夢の中のヴァンを抱えようと肩と足に腕を差し込んだ。
「別に……そのままでいいけど。俺が違うトコで」
「は階段禁止だ、よっ」
最後の、よ、で声にも腕にも力が入る。が、さすがに二歳しか違わない弟は簡単には持ち上がらないようだ。息を吐き、困ったように苦笑する。
……弟の睡眠を邪魔しないよう、そっと運んでやろうってところがまさに、なんだよな。
見かねたは、おもむろにさっきは撫でかけたヴァンの頭をぱちこんっとはたいてやった。
目を丸くするレックスを、反対に両目の開けきらない弟が見上げる。
「あ、にいちゃん、おかえり……」
「上で寝ろってよ」
が軽く腕を引っ張ると、「んー」 と返事なのか鳴き声なのか分からないような声を出して、おぼつかない足取りでベッドから下りた。ふらふら歩いて行くのに、レックスが付き添う。
やがて上から一人で戻ってきたレックスは、「ありがとう」 と微笑んだ。
いやいや……俺、頭叩いただけなんだけど。
そうツッコミかけたが、しかしカンテラの明かりの中で彼がふわりと作る笑顔が、こちらが脱力してしまうほど素直で、やっぱりお人よし然としていて。は一人ため息をついて、違う話を振った。
「あー……晩飯、下にあると思う」
レックスはそれに対しても礼を言い、けれど階下に行こうとはしなかった。
彼が手に提げていたのは、カンテラと、救急セット。
パンネロの父親からの仕事にあぶれたレックスは、その翌日からミゲロというバンガの道具屋を手伝っているらしい。(ものすごく聞いたことのある名前だ……と微妙な顔をするに、俺もたまに手伝うんだ! とヴァンが得意げに教えてくれた)
たった十五で、親もいなくて、弟のために働かなきゃいけなくて。
ただでさえ大変だろうに、仕事にあぶれた元凶とも言える見ず知らずの行き倒れを、手当てして、さらには自分の家に置いたりまでして……
……良い人すぎて、むしろ、呆れる。
いや、助けてもらっておいてなんだけど、俺が悪い奴だったらどうすんだ?
本当に助けてもらっておいてなんだが、ついそんなことを心配しながら隣で丸椅子に座るレックスを見てしまう。
既に包帯を手際よく変え終えた彼は、今は、淡い緑色の光に照らされていた。
その光は、の背中にかざしたレックスの右手から放たれている。
薄く開いて集中する瞳に焼かれるように、背中がじんわりと熱を帯びていく。やがて暖かさは全身に行き渡り、昼間少し動きすぎて痛みが出ていた右足首から不快感が消えていく。
昨日、これを初めて見たが驚きすぎて飛び退いて、またもや激痛に襲われながらもつっかえつっかえ尋ねると、レックスはこともなげにこう答えた。
『ただのケアルだよ。俺のじゃ、そんなに効果は出ないかもしれないけど』
思えばここで最初に目覚めた時、動けないほどの痛みを鎮めてくれたのもおそらく、これ。そう思い至るも、いやいやケアルって、という戸惑いが駆けめぐる。
魔法って、そんな――ゲームじゃあるまいし。
「……」
まぁ、ゲームっていやぁ、そうなんだけど……。
レックスのケアルを受けながら、苦い顔で部屋を照らすカンテラを見る。
あれも、魔法の力が関与しているという。純度の高い魔石を切り出す際に出たくず石の寄せ集めが燃料らしいが、魔力を反応させるとルームライトには十分すぎるほど明るく光るのだという。
はは、魔石かよ、一体どこの魔石鉱で採れたんだかねー。
……心の中でひとしきり空笑いした後、はぁ、と深くため息をついた。
バンガも魔法も、夢なんかではなく現実だ。でも未だ納得しきれない感情がくすぶっている。
じゃあ何か? 俺はアリスよろしく、ゲームの世界のワンダーランドに飛び込んでしまったとでも?
精神的な頭痛に目をつむり、うーん、と眉間に皺を寄せる。
それを怪我のせいかと勘違いしたらしいレックスが、心配気に覗き込んできた。
「痛む?」
「え……いや、別に」
“魔法”はよーく効いてるよ、と内心皮肉る。と、レックスが不意に厳しい顔をしているのに気付いた。
――だが、気のせいかと思った。
目だけで訝ると、すぐに、彼がよくするちょっと頼りなさげな笑顔に変わってしまったから。その時は気のせいだと思った。
ケアルとは、敵からダメージを受けて減少したヒットポイントを回復させる魔法だ。
だが、今同じ屋根の下にいるレックスやヴァンが数字を背負って歩いているわけもなく。そんな彼らの生活の中にあるケアルとは、怪我をそれこそ魔法のように完治させる代物ではないらしい。
『治ったわけじゃないから、無理はしないで』
レックスが言っていた通り、まだ右足は無理すれば痛むし、左腕も動かせない。魔力の高低で差はあるらしいが、誰が使っても効果としては“痛みを緩和し、自己治癒能力を通常より高める”のが精いっぱいのところだという。
夢の無い話ではあるが、それはそうかもな、と納得する部分もあった。「フルケア!」 で瀕死の患者も全快するなら、この世界は天寿を全うする奴ばかりだ。
「……って、魔法ありきで考えてる」
枕に顔を埋めたまま、ほとんど呻くように言った。
上のヴァンは変わらず充電中で、下からは食器とスプーンのかち合う音がする。もう手当ては済んで『おやすみ』 とも言われたのだが、頭に浮かんでくることが多すぎてまったく眠れなかった。
ここは、魔法のある世界だ。
異種族のいる世界だ。
まだ“そんなバカな”と叫ぶ自分がいるにはいるが、百歩譲ってそういう世界に来てしまったんだとしよう。
だったら、一体……
……どうやって、帰ればいい?
水を流す音に次いで、階段をそうっと上がってくる気配がした。気付いてじっとしていると、こちらの様子を確かめるような間の後、レックスは三階へと上がっていく。
やがて天井に響いていた物音も聞こえなくなった頃、はゆっくりと張り詰めていた表情を解いた。
意を決したように、薄い掛け布団を剥がす。
どうやって帰ればいい? どうやって――
放り込まれた暗闇で出口を探すようなこんな疑問、ベッドの中なんかで悶々と考えるのをやめたのだ。
右手を支えにして起き上がり、左足を床につける。杖に体重を預けて立ち上がる。
仕事に疲れたレックスがもう眠ってくれていることを願い、は杖の先を下り階段に降ろした。
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