87.母親の香り
両腕を大きく広げた形で人を吊るす拘束具は本人一人で嵌められるものではなく、必然的に、は手伝いを命じられることになった。可愛い弟をそんな酷い格好にする手伝いをだ。
……拘束はキルアのけじめ。その意思は尊重すると決めたことだ。それに口出しはしない、拒否反応もなるべく顔に出さない。
後者ははたして貫けたかどうかは分からないが、出来る限りそれらを心掛けて作業を終え、キルアを一人残して独房の扉を閉めたの心境は、決して悪いものではなかった。
キルアは言った。
待っとけ、そうゴンに伝えてくれと。
そして、笑った。
笑ってくれたのだ。
「……へへ」
キルアの笑顔を見たのは、いつが最後だったろう。
記憶をあらためようとして、あれ、俺に笑いかけてくれたことってあったっけ、と早々に疑問にぶちあたってしまったがそれはともかく。
今まで抱いていた不安を吹き飛ばしてくれるようなまぶしい笑顔に、は自分も口が緩むのを抑えきれなかった。
それもこれも、すべては――
……適わないなぁ、昔の俺には。
自分がどんなに頭を悩ませ、どんなに勇気を振り絞って言葉をかけようとも成しえなかったことに、いとも簡単に手が届く。伸ばした手を振り払われずに、弟の頭を撫でることができる。
キルアを屈託無く笑わせたのは、昔の俺。あいつがキルアとした約束のおかげだ。
そう、は思っていた。キルアの心の中を覗き見れないがゆえに。
喜ばしく思う反面、妬ましくもあり、さみしくもある。自分がキルアと昔のとの間に割って入っているような後ろめたさもあるが……そこはの、譲れない部分だ。
ぶんぶんと頭を振り、キルアの笑顔だけを思い出して「……よし」 と前を向く。
「ゴンに早く伝えなきゃな、絶対喜んで」
「様」
抑揚の無い呼び掛けに、出鼻は挫かれた。
背後をぎぎ……と振り返ると、想像した通りのオールバックとメガネがそこに。
「奥様がお待ちになっておられます。急ぎ、広間へ」
キルアに会う前にもそっくりそのまま聞いたようなセリフが、感情の篭らない声で繰り返される。
職務を一切忘れてくれていなかった優秀な執事、ゴトーを前に、
「ア、ハイ……」
は死んだ目で頷くしかなかった。
ゴトーについて歩いていくにつれ、再び廊下に絨毯が敷かれ始めた。とはいえ武器を抱えた丸っこい少年とぶつかりかけた場所とはまた違うように思う。……思う。方向音痴では決して無いつもりだが、曖昧にならざるを得ないほど、屋敷は広い。広すぎる。初見殺し甚だしい。
途中、すれ違った使用人らしき女性達には、軒並み、廊下の端で丁寧に頭を下げられた。
通り過ぎた後も、まだ下げている。とても挨拶できる空気ではなくてやむなく立ち止まらずゴトーについていくの胸中は、一体何人の使用人さんを抱えているんだという戸惑いと、おそらく彼らを使う立場である“奥様”への想像で占められていた。
「あのー……」
広間への案内。その職務だけを忠実にこなしているゴトーへと声をかける。
「はい、何でしょうか」
「奥様……って、その、どんな人、ですか?」
今まで知ろうとしてこなかったのだから当然だが、母親に関する情報はほとんど無い。
何も覚えていないのことを考慮してくれたのか、ゴトーがまず口にした奥様のプロフィールは、基本的な肩書きだった。
「キキョウ様は、ゾルディック家の現当主、シルバ様の奥方様であられます」
「うんうん」
まずは名前を反芻し、水に入る前の準備運動のごとく、会うにあたっての心づもりを開始する。
が、ゴトーの言葉は続かなかった。
絨毯のせいか足音も響かず、すっかり居着こうとした静寂をが「えっ」 と破る。
「……そ、それだけ?」
ゴトーは少し考え、求められた通りにプロフィールを追加した。
「ご当主に代わり、ゾルディック家の内事、使用人の選別や指示を一手に引き受けられる方でございます」
「あ、うん、その、そういうことだけじゃなくて……どんな性格、とか、ゴトーさんから見た印象とか……」
「私共が、雇い主である方々に特別な印象を持つことはありませんので」
うう、プロ意識半端無い。
「じゃ、じゃあ、その人と話したこと、とか……ゴトーさんが知ってるここだけの話、とか、何か無いですか」
そう食い下がったは、少しゴトーの歩調が緩くなったのを見て、お、と思う。
「ここだけの話、ですか」
何かあるの? と期待して待つ。
首だけを振り向かせたゴトーは、「そういった話は持ち合わせておりませんが」 と前置きした上で、人差し指を口の前に持ってきて――よく分からないことを言った。
「ここだけ、に留めることができないお方でいらっしゃいますね」
……どーいう意味?
の疑問のまなざしには、再び歩き始めたゴトーは答えてくれなかった。
母親に関する姿形も人となりも執事から見た印象も、結局何一つ得られないままはタイムオーバーを迎えてしまった。
目の前に鎮座する、両開きの扉。
その向こうへ、ゴトーが到着の旨を伝える。
ややもせず、
「入りなさい」
女性の高い声が、対面が数秒後であることをに告げた。
ゴトーが扉を引き開けていく。
その数秒間、は目まぐるしい程の思考の渦に襲われていた。
初対面だが再会であること、それに対する申し訳なさはある種段違いで、覚えていない生みの親へ自分は何て言うべきか、はたまた、会った瞬間自分は覚えていないままでいられるのか、自分の記憶を刺激しかねないその人はどんな顔で、どんな姿で、どんな言葉で自分を迎え入れるのか。
ばくん、ばくんという心臓の音と共に大きくなる、さっきの心づもりなど押し潰してしまうほどの不安は、しかし――
扉が開ききった瞬間、無に帰した。
ドレス。
真っ白な、結婚衣装ばりのドレス。
帽子。
どこかの女優さまかと思うくらいの幅広帽子。
その下の大仰なゴーグルの、単眼のような赤い光が、キュイン、とこちらを見据えて収縮する――
ゴ、ゴトーさん、変な人が家の中に!!
と緊急事態を知らせたかったがあまりの衝撃によって声にならない。が、まさかそれが功を奏す結果になるとは思いも寄らなかった。
「ゴトー」
「はい、奥様」
え
「確かに“ただちに”とは命じなかったけれど、執事なら、雇い主の言外の要求にも頭を働かせなさい」
「申し訳ございません」
ええ
「まあいいわ。こうして、やっと、会えたのだから……ゴトー、あなたはさっさと下がりなさい」
「はい、失礼いたします」
えええ……
深々と礼をして、扉の前から一歩下がるゴトー。
さらに横にずれてからようやく顔を上げた彼を、はすがるように見つめた。
“ゴトーさんあの人”
“奥様です”
“えええ……”
“どうぞ中へ”
“いやいやいや……”
などというアイコンタクトを通じて驚愕の事実を叩きつけられたは、しかし信じがたくとも、否定するだけの情報も記憶も持たなかった。
渋い表情で、どうにかそれを受け入れて、とりあえずさっき『変な人がいる』って叫ばなくて良かったよな、と少しだけ自分を落ち着かせたのち、恐る恐る広間へ足を一歩だけ踏み入れる。
と、そこで立ち止まるの後ろで扉がパタンと閉まり、いよいよ観念して、そろっと視線を上げた。
「ああ……、よく、帰って……っ!」
さっきまでは冷たく高圧的に聞こえていた声が、一転して熱を帯びる。喜びに打ち震える声に合わせて強さを増すゴーグルの光は、一心にに注がれていた。
ドレスで隠れて見えないが、カツカツと鳴っているのはハイヒールだろう。衝動を抑えきれないように両手を伸ばしながら歩み寄ってくる女性に、あ、とも、うん、とも発することができなかった。
聞きたいことも、言いたいことも、一旦距離をとることも何一つ実行できず、その迫力に負けて立ちつくす。
「さあ、よく顔を見せて」
びくっと肩を揺らした次の瞬間、冷たい手がひやりと頬に触れた。腕を掴まれたわけでもないのに、たったそれだけで全身が拘束されてしまったようだった。
指の一本も動かせない。
渇いていく唇も閉じられない。
母親だと意識しているせいなのか、そもそも異性とこんな距離で接したことがないせいか、それともゴーグルの赤い光がキュインと瞳孔のごとく収縮し、をじっと捉えているせいなのか――ともかく緊張の糸でがんじがらめだ。
頬に添えられるのが両手になって、いよいよ心臓がもたないかと思われた時――
ふと、気付いた。
メカメカしいゴーグルばかりに気をとられていたが、女性の顔には、包帯が巻かれていた。ゴーグルの下や頬、顎に至るまで、ぐるぐると。
それもまた彼女のインパクトに華を添える一因にもなりえたが、不気味さが、の目を引き付けたのではない。
怪我……
“息子に刺された”というのが数少ない母親の情報の一つであり、顔面の包帯は自然とそれと結びつく。
確かにピンピンしてる、けど……
指先、足先までをも縛る緊張を忘れ、その痛々しさに目を奪われる。と、彼女の顔で唯一露出している真っ赤な唇が、の意表を突く形で言葉を紡いだ。
「おかえりなさい、私の愛しい子」
彼女の顔が近付いて、右側へ通り過ぎる。
頬から離れた彼女の両手も、の後ろへ。背中の感触からして回りきっていないようだが、は確かに、抱きしめられていた。
「――――あ……」
自分に触れる手、自分を包み込む腕。
それらが“誰”のものかなんて、考えるまでもない。
おかえりなさい、と言われ、愛しい子、と呼ばれてまで、それが分からないわけはない。
ぎゅ、と。
彼女の腕にこもる力がに伝えるのは、柔らかな熱と、ほとばしる喜び。それに引き寄せられた自分の顔は自然と華奢な肩口に近付き、そこから華やいだ香りが立ち昇った。
この熱は、“母親”のぬくもりだ。
自分を産んだのは、間違いなくこの人なんだろうから。
だってあんなにも優しく名前を呼んでくれて、
こんなにも強く抱きしめてくれている。
この香りも、自分にとって唯一無二の、懐かしくてたまらない“母親”のもの。
きっとそう。そうなんだろう。そうに違いない――
だけど。
ぬくもりに包まれ、香りに鼻孔をくすぐられながら、は、
「――――」
言葉を、失っていた。
…………なんで
抱かれたまま、立ちつくす。
全身を縛りつける緊張の鎖はもう存在しなかった。をその場に縫いつけ、指先一つ動かす力を奪っているのは別のものだ。
照れも、焦りも、戸惑いも。
何もかも忘れて、生まれた疑問だけに囚われる。
なんで、と。
「おなかは空いていない? そうでなくても我が家の味は恋しいでしょう、そうよね、そうだわ、すぐに用意させますからね!」
いつの間にか身を離していた“母親”からそう一方的に食事の通達がされるまで、口を開いたままぼうっと立ちつくしていた。
我に返ったは、「さあさあ座って」 と強引に促され、バカでかいテーブルの一角に着席させられていた。
を椅子に押し込んだ女性――キキョウは、今は広間にはいない。
うきうきとした様子でこちらが遠慮や辞退の言葉を紡ぐ暇を与えずに、
「少し待っててちょうだいね、のおなかを鳴らすような鈍間な仕事をするようならそんな使用人はすぐにくびり殺しますからね。……もう! 何をしているの、先にお水の一杯も持ってこられないの!? ああ、ごめんなさいね、それにしてもせっかくが帰ってきての食事だというのに二人だけでは寂しいわ。でも今家には……そうだわミルキを呼びましょう、せっかくだもの賑やかな食卓にしたいものね」
……と、言うだけ言って出て行ってしまったからだ。
途中、思わず身体を縮こまらせてしまうほどの金切声で怒鳴っていたのは、何かの間違いだろうか。
くびり殺す……とか、言っていたのは……
自分への優しい声音と態度を思い返せば、気のせいだと思っておきたい。
……というか、それより……
あらためて見てみれば、さすがこの巨大迷宮のような屋敷で“広間”という名を持つだけのことはある、と感心するほどの広々空間。物音を立てれば響いてしまいそうな遠慮もあって、はそこでおとなしく座りながらも、難しい顔で考える。
こんな予定では無かったんだけど、と。
先ほどから何度か、広間の扉が開き、使用人らしき男女が出入りを繰り返している。の前に水を置いたり、フォークとナイフを揃えたり、単にの斜め後方で姿勢を正して控えたり。
……最後の人は一体、と、その存在を目の端で窺い見る。黒い燕尾服姿からして彼は執事のようだが――
こっちの用事に即座に答える、ウェイター的な役目?
それとも、見張り?
俺を帰らせないための?
そう疑るのは、勿論、自身が“帰るなら今じゃね?”と考えているからだ。
予定では、椅子にすら落ち着くつもりはなかったのだ。
母親だっていう人に会って、覚えていないことを謝って、でも記憶が刺激されるのは怖いから、なんか上手いことやって早々においとまする。
そう、心には決めていたのだが――なんか上手いことやれなかった結果がこの現状だ。
今の内に、伝言でも残して、退散するべきか……
そう考えた時、ふと嫌な想像が過ぎり、「あの」 と背後の男性に話し掛けてみた。
「俺のこと……見張ってたりします?」
「奥様が戻られるまで、様にこちらで待機していただくよう、仰せつかっております」
「……俺がもし、勝手に出てっちゃったら……執事さん、くびり殺されたり、しちゃう?」
「…………」
「な、何か言ってよ!」
すこーしばかり懸念したことが、ここではまかり通っているみたいじゃないか。
いくら暗殺一家だからって!
いくら暗殺一家だからって!
……だめだ、言えば言うほど真実味しか帯びない!
ここは執事さんに迷惑をかけないためにも、キキョウを待ち、直接いとまの意思を伝えた方が良さそうだ……、とが諦めのため息をついた時、かちゃ、と酷く控えめに扉が開く音がした。
反射的にそちらへ向くと、
「……げっ」
目が合った。合った瞬間げっと呻かれて、バタンッ、と勢いよく扉は閉められてしまった。
しかし、見間違いでなければ、今の子は。
逃げるように閉めたものの、やはりどうしても広間に用があるのか再び扉が、今度は大きく開いていった。
そこに渋面で立っていたのは、大きく開けなければ通れないであろう身体の持ち主。
「きみ、えっと……ナインズオールM01!」
「ミルキだよ! なんでそっちで覚えてんだ武器オタが!」
条件反射的な速度で突っ込んだ少年、ミルキは、しかしすぐさま“墓穴を掘った”と言わんばかりに顔をしかめる。
そんなことには気付かずに、「そう、ミルキ!」 とは声を弾ませた。
「入っておいでよ、俺話したいことすっごいあるんだ!」
諸手を上げて歓迎するを、しばし警戒でもするように窺っていた後、
「……何関係の?」
まだ扉の陰に半分くらい身を隠しながら言う。
それに対して「武器関係!」 と満面の笑みで答えると、彼は扉を盾にしたままではあったがその警戒色を緩めた。ホッとしたようにも、呆れているようにも見える。
「……マジで誰だこれ……まぁ、いいや……殺されるより」
「うん?」
聞こえた独り言に首を傾げると、「こ、こっちの話だよ……」 と無い首をさらに縮めながら、のそっと広間へ入ってきた。
「お、俺の方に、話したいことはねぇ。飯食ったらさっさと部屋戻るからな」
「飯?」
「……聞いてねーのかよ」
「え?」
「……だから、その……」
話がうまく噛み合わず、何やら口篭るミルキを凝視するが、そういえば、と思い出したことがあった。
こちらに相槌すら挟ませない勢いで食事に関することを喋り倒して去ったキキョウ。その中で、誰かを呼ぶ、と言っていなかっただろうか。
ミルキ……そうだ、ミルキをって
「あらミルキったら、まだ席についてないの? お料理はもう運ばれてきますから早く着席なさい。ああ……全員ではないけれど、を入れた家族団欒は二年ぶりね!」
ばたーんと盛大に扉を開いて入室し、それを同じ勢いで甲高い声を響かせる、キキョウの言葉に目を丸くした。
かぞく、だんらん?
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