86.変われない
試しの門を開け、ゴンと話し、カナリアという執事の女の子に会った後。
森林の中を道なりに進んでいったは数名の男達に出迎えられた。カナリアと同じ黒服からして執事なのだろう。
ゼブロやカナリアの時のように自分のことをおずおず話そうとすると、中心にいた強面のメガネさんが『事情は窺っております』 と言う。ならキルアに会いたいんですけど、と告げるに、彼、名前を聞けばゴトーと名乗った執事は『分かりました、ご案内致します』 と答えてくれた。
……その後屋敷内の廊下にて、その言葉の本当の意味は、『分かりました。(ですが先に奥様の元へお連れするように言われているので、そちらへ)ご案内致します』 だったと判明したわけだが。
これってあれだ、言葉足らずなだけで嘘はついてないっていうアレ。
……怖くない?
……世の中正しいことばっかじゃないんだと勉強になったよ、うん。
しかしながら、キルアを後回しにはしたくないし、いきなり実の母親に会うのもハードルが高すぎるゆえに全力で懇願すれば、逡巡しつつもそれを汲んでくれたゴトーは優しい人なんだろう。
ありがとうございます! とお礼を言っても『いえ』 と事務的に頭を下げられるだけだったが、ゼブロといいカナリアといい、ここで働いている人は皆親切だとは目を細める。
ああ、その時に居合わせたミルキって子もいい子だ。
話はろくにしていない、でも分かる。武器好きに悪い奴はきっといない!
そういえば、ワイシャツとズボンという緩いスタイルだったが彼も執事なのだろうか。前を歩くゴトーに尋ねようかと思ったが、その足が止まったので自分も慌てて止まり、「こちらです」 の声に口を引き結んだ。
暖かさを感じた使用人達とは違い、ゴトーに案内されて歩くゾルディック家の廊下は、石造りで酷く寒々としている。ミルキとぶつかりかけた辺りは絨毯が敷かれていたが、そこからキルアの元へと向かうにつれてどんどん家らしいぬくもりが削がれていくように感じていた。
そして極めつけはゴトーが示した、鉄板で補強されている木の扉である。外側に取り付けられている物々しい鉄錠は、屋内のドアとしてはさすがに常軌を逸している。
「……ここが、キルアの部屋?」
「いえ、独房です」
「……は?」
予想だにしていない言葉に耳を疑った。
ドクボウ?
勿論、独房なんて特殊な言葉の意味は一つしか思い当たらない。しかしは今キルアの実家にいるはずで、そしてキルアが今居る場所へと案内を頼んだはずだった。
「キルア様は家出の際、奥様と御兄弟を刺して行かれました」
困惑していたは、ゴトーがさらりと言ったことにさらにギョッとする。
「それゆえ、ご帰宅された後はこちらに」
刺した?
誰を刺したって?
正直混乱が深まるばかりだったが、当初の目的地を目の前にして、ぐるぐるまごつき続けるのも意味のない話だった。ともかく、キルアに会おう。そう意識を集中させることにして、は取っ手に手をかける。
「…………」
集中は、その手に緊張を誘った。
ハンター試験でキルアはどれほど傷つき――この部屋で、何を思っているのか。
そんな弟に、まず、何て声をかけるべきなのか。
ずっと考えてきたが、結局最適解など見つからないままだ。おかげで心臓はばくばくと不安を叫んでおり、ともすれば口から飛び出しそうなそれを必死で抑えこみながら、ゆっくり、自分にとって精一杯のスピードで扉を引き開ける。
疑問や不安が騒音と化して、頭の中で鳴り響き続けている。
が、一瞬にして、消えた。
何も考えられなくなった。
全身傷だらけのキルアが、吊るされていたからだ。
沸騰した怒りに任せてドアを開け放つ。部屋の中央に駆け寄ったはまず、ぱち、とキルアが気怠そうにまばたきするのを確認した。意識はあるし、何ならあくびをする姿は余裕すらありそうだ。
が、天井に設置された物々しい装置と、両手にそれぞれ嵌められた拘束具とを鎖で繋がれた酷い格好に、安堵などできるわけがなかった。
「こんな……誰が!」
「オレ」
「くそ、すぐに外して……え……オレ?」
「下ろしたりすんなよ。そこのゴトーから聞いてねぇ? 一応、オレなりのけじめだからさ」
全身に裂傷やらミミズ腫れを作り、口の端にも血を滲ませている姿とは似つかわしいくらいに淡々とキルアは喋る。
平気そうだ。実際、キルアにとってはそれこそあくびをする程どうってことのない傷なのだろう。
言っていることも、本当、だろう。
「……キルアの、意思?」
「そう。話ならこのまま聞くから」
「……っ……」
即答されてしまえば、それ以上は、言いたいことを飲み込むしかなかった。
「…………分かった……」
こんな痛々しく吊るされたキルアを、正直見てはいられない。今すぐにでも下ろしてやりたい。
……けれど。
は何も知らない。
キルアと家族との間に起こったことも、詳しい事情も、いきさつも、何ならその家族の顔すらもだ。そんなものは部外者にも等しい。
当の彼が“けじめ”という言葉まで使ってやっていることに、何も知らないヤツが横から口を出すのは、ただのエゴというやつではないか。
「……おい」
キルアが酷い目に遭っているのは見過ごせない。
そりゃあすぐにでも鎖をたたっ斬ってやりたいさ。
けど、キルアがそれを望んでるのか? 違う俺のワガママだ、俺がただ嫌なだけで、だからキルアを思うならキルアの意思を尊重すべきで、だから――
「…………はぁ……くそ」
バキンッ、と音に、自戒的な意識に沈んでいたは目を丸くした。
「え……何で」
鎖の破片が床に跳ねる。自由になった右手をぶらりと垂らすキルアは、苦々しい表情のまま、諦めのため息を噛み潰した。
「……うざい」
「え」
「その顔! 顔がうぜーの! 全然“分かった”って言ってねーよ! ぐじぐじもやもや情けねー目でなーんか言いたげにしやがって、どうせ俺に遠慮して呑み込んでんだろうけど、それ全部顔に出てるから!」
左手の拘束も、力任せに解く。
「こっちが気になって話できねっつーの!」
「す、すすいません……!!」
言葉一つ飲み込めない情けない顔でごめんなさい……!
すぐさま正座し、身を前に投げ出して謝る。口出しすべきじゃないなどと戒めながら結局すべて駄々漏れとは、自分の馬鹿さ加減に額を擦り付けずにはいられない。
だが、正直、ゲンキンな話、ホッとしていた。散らばる破片に、気を使わせてしまったと猛省しながらも、キルアの両足が床に付き、両腕もぶんぶん自由に回せているのを見て……ホッとしていた。
「ゴトー、新しい拘束具用意しといて」
「かしこまりました」
ドア付近から執事の気配が消える。それを待って、キルアは石造りの冷たい床にドカッと腰を下ろした。
傷だらけなのはいたたまれないが、あぐらに頬杖をつくキルアとはやはり、さっきまでより落ち着いて向かい合える。も同じように座ると、正面からじとっと睨まれた。安堵があからさまに顔に出てしまっていたのかもしれない。う、とそれを苦笑いに変えながら、キルアの視線から一時撤退するように部屋の四方へと目線をさまよわせた。
室内は独房というわりに広く、用途を詳しく知りたくない血染めの器具の数々を見るに、房ではなく拷問部屋では、と言いたくなる。
キルアが自らこんな部屋に入った理由。
ゴトーから概要だけは知らされていたが、やはり本人にも聞かずにはいられなかった。
「刺した、って……」
答えは、さらりと返ってきた。
「あー、家出る時にヒス起こされてさぁ。おふくろと、ついでに豚くん」
……ぶたくん?
とは何だろう。だが、そこを深く突っ込むより先に気にすべきものがある。
「おふくろさん、怪我は」
「ピンピンしてるぜ、うんざりするくらいに。イルミ兄貴からあんたのこと連絡受けて、余計ヒートアップしてたみてーだけど、よく捕まんなかったな?」
「…………」
それは多分、ゴトーさんのおかげです……。
家庭内傷害事件と聞いた時は驚愕したが、そう大ごとでも無さそうで安心する。……大丈夫だろう、うん、ピンピンしているというのなら。
だが、そっかよかった、なんて笑顔にはなれない。
母親は大事ないようだ。
その罰として自分の意思でここにいるというキルアも、けろりとした顔でと話をしている。まるきり平気そうだ。
が――本当にその心が平穏だとは、思えない。
友達を作る資格なんて無いと心に叩き込まれて、
自らハンター試験を放棄して、
母親を刺してまで出た家に、戻ることを余儀なくされた。
平気で受け入れているはずが、ない。
「ゴン、今、門を開けるの頑張ってる」
キルアは飄々としていた顔をにわかに固くした。
だが、
「知ってる」
短く答えたキルアからはもう動揺は消え去り、再びあくびさえし始めそうだった。
キルアは取り繕うのが上手い。感情を隠すのが、こっちが憤るくらいに上手い。
だから余計に、平気じゃないんだろ? と問い詰めたくなってしまう。
平気なはずがない。
辛いよな。
だったらこんな家なんて捨ててしまえばいい、家族の意思を無視して縛りつけるこんな家なんか!
そう言ってキルアの腕を掴み、ここから引っ張り出してやりたくなる。だけど――
差し伸べようとする手は、止まる。
勿論キルアへと叫びたい自分の主張も、喉からは出てこなかった。
「……ここに来るまで、ずっと、キルアに何て言えばいいか考えてた」
イルミの言うことなんてでたらめだ。
家にそこまで従う必要なんてないし、縛られる必要もない。自由に友達と遊べばいい!
そうは、思う。
「でも……」
キルアはけじめだと言って自らを拘束した。今もまたゴトーに再度鎖を要望している。
そんなことやめろ、と今にでも叫びたくなるほど、それはにとって理解の及ばないことだった。鎖で吊るされるなんてやり過ぎだ――しかしキルアは当然のごとく受け入れている。
それに限った話ではないだろう。この家に来て驚きっぱなしの自分と、キルアの“当たり前”はきっと違う。常識外のこの家で育まれた時間も、その重さもだ。
「……俺はこの家のこと、結局何にも知らない。何も覚えてなくて、何も理解できない俺が、何言っても、キルアには届かないかなって」
あぐらをかいてこちらの話を聞くキルアに、その足を動かそうとする様子はまるでない。独房を出る気も、ゴン達に会いに行く気も無いのだろう。次に動くとすれば、鎖を再度嵌める時かもしれない。きっとそこに、この家での十二年がある。には無い、この家で過ごしてきた時間と記憶と経験が。
だから何も言えない。
――だが。
思えばそれは、自分だって本来持っているものだ。
記憶があれば。兄弟としてこの家で同じ時間を過ごした思い出があれば、もしかすると、弟に言えることもあるのだろうか。
『今だってどうせオレが兄貴だってはっきりした確信は無いんだろ? なのにお前、オレやキルと兄弟のつもりでいるの?』
最終試験でイルミに言われたことは、今も深々と心に突き刺さっている。
イルミの言う通り、今の自分に、兄弟面する資格はない。
弟のことをどんなに大事に思って訴えかけても、イルミの正論一つでばっさり切り捨てられる、上っ面だけで中身の伴わない存在なのだから。
けれど記憶さえ戻れば。
思い出しさえすれば、兄として紡げる言葉があるだろう。
部外者の感情論で終わらずに、同じ目線で、同じ立場でキルアの心を理解しながら、それに寄り添える言葉が。
それはきっと、イルミすら黙らせて、
それはきっと、キルアに届く。
記憶さえ戻れば、思い出しさえすれば。
この家にまつわる思い出をすべて取り戻して、
昔の自分に、戻れたなら。
でも。
……でも。
「でも、だからって――全部思い出したいって気は、ないんだ」
「……なんで」
目を見開き、初めて感情を露わにしたキルアにどきりとした。
自分が意を決して口にしたことは、それほどキルアの胸を刺したのだ。
それでも、言っておかなければならなかった。
思い出したくないことを。
思い出してやれないことを。
キルアが待っている、本当の兄貴は返してやれないことを。
「俺には二年の記憶しかないけど、その間にいろんな人に会ったよ。大事な友達もできたし、すげー尊敬する人にも出会えた。自分なりにも強くなれたし、やりたいことも、ちょっと見え始めてる」
失いたくない関係。
ずっと見上げていたい人。
積み重ねた修練は、自分をここまで歩ませてくれたのは勿論、これからの道をも照らし始めた。――ああ、それは、導いてくれた人と手を貸す約束をしてくれた人、自分にとってかけがえない二人のおかげかもしれない。
……だから、なおさら、怖かった。
「……正直、昔のこと思い出したら、そういう今とかこれからのことが、無くなっちまうんじゃないかって……思うトコがあってさ」
今の自分は、ほとんど、彼らからもらった記憶や経験で形作られているから。
失うにはあまりに大き過ぎるから。
「だから――ゴメン。必要以上に思い出したくないと思ってる」
ゴメン。
黙ったままのキルアに、重ねて謝ることしかできなかった。
“さっさと記憶戻せよな”――そうに求めていたキルアを、傷つけたのは明白だからだ。
けれど、期待には応えられない。
どうしたってキルアの望む昔の自分には戻ってやれない。
この二年間の記憶は、大切で、かけがえなくて、自分のすべてで――
失ってしまうことは、死ぬのと同義だから。
だから、自分はキルアに、何も言えない。
手を差し伸べることもできない。
笑顔にも、してやれない。
今だって、一人試験場を出て行ったキルアを気遣うどころか、悲しませることしか言えていない。
そう自覚すれば、ただただ情けなくて――けれど、過去を思い出したくない自分には、きっと傷つけることしかできないんだろう。
――“今”の、自分には。
ずっと自分の背後に置いてあった物をあたかも手繰り寄せるような仕草で、メモリーボックスからナイロン製のバッグを引きずり出す。その中に入っていた箱をズッと差し出すと、キルアの猫目が微かに広がった。
何かは、ロゴマークを見ればすぐに分かっただろう。
「……これ」
「その……夢に見てたって、言っただろ? キルアにお土産頼まれて、いってらっしゃいって見送られる夢。えーと、だから、これは……昔の俺から」
二年前のあの夜、何も無ければ=ゾルディックが買って帰ったであろう物。
それを彼の代わりに渡して、はここへ来た目的を終える。
「……土産買って帰らなきゃって思うくらい、そいつ、キルアのこと大好きだったんだと思うし」
キルアの言葉を借りれば、これは昔の自分と、それをずっと待っていた弟へのけじめだった。
*
二年前の約束なんて、正直忘れていた。
靴を買ってくれなかったことより、兄が帰ってこないことの方がずっと問題で、どこで何をしているのか、あの兄が死ぬはずがないが連絡のとれないほどの状況なのだろうかと気にしている内に、話の流れで出ただけの口約束などすっかり忘れてしまっていた。
今、予想外にそれが叶えられて――キルアは、呆れ返る。
……二年も前の、当人も忘れてるようなこと、律義に果たすなっての。
そんなのオレの知ってる兄貴のガラじゃない。
全然らしくない。
例えば記憶を失ってない兄貴が二年ぶりに帰ってきたとして、その手に土産を持っているかと言われれば、ノーだ。することより、しないことの方がずっとずっと多いんだ。何か約束したところで、『……悪い』 って、大して悪く無さそうに何回言われたと思ってんだ。
一から十までまるきり別人で、何も覚えてねーアンタが、兄貴の考えなんて分かるわけねーだろ。適当なこと言うなっつーの。
オレのこと心配して飛行船まで乗って追いかけてきたのも、向かい合って話してるのも、約束、果たしてくれたのも……
兄貴じゃない。
アンタじゃないか。
オレのこと大好きなのはアンタだろ。
んなこと、試験中からウザイくらい知ってんだよ。
色も形も好み分かんなくてとりあえず新しいモデルのを買ったんだけどサイズとかもどうかな大丈夫……?
などとおろおろそわそわ聞いてくるに、箱に印字されている自分よりワンサイズ大きな数字を見つつ、「大丈夫」 と答えた。大きい分には問題無い。
よかったー! という安堵の声に被さるように、扉が二回ノックされた。
入ってきたのは新しい拘束具を持ってきたゴトーで、それをきっかけにからは言葉も笑顔も消えてしまった。
再び二人になった独房で、鎖付き手錠をぽーんと弄ぶキルアの顔をが覗きこむ。
「……まだ、続けんの?」
「一応罰だし。やめる時期はオレが決めることじゃねーよ」
「……そっか」
そう言って顔を斜め下に伏せたのは、キルアが指摘した雄弁な表情を隠すためだろう。努力はしているらしいが、無駄だ。さっきと同じ、“本当は続けさせたくないが自分には言う資格が無い”的な、気遣わしさやら葛藤やら、罪悪感めいたものやらはまるっきり隠せていない。
こういう良くも悪くも表情豊かな面が、ある意味最も、昔の兄とはかけ離れた部分だった。
それを眺めながら、キルアは目を眇める。
自分も、次兄も、殺し屋だ。
だが兄はすべて忘れて、人もすっかり変わり、この家から離れて生きている。
自分は――ダメだ。
そんな風には、変われない。
それこそ記憶でも失わない限り、兄のようには、変われない。
だからこの家に戻ったのだ。明るい世界でゴンと友達になるなんて分不相応な望みは捨てて、自分に染みついた血の匂いと共に暗がりに沈み込もう。
ゴンに合わせる顔も無い。
自分にしてもその顔を見なければ、きっと太陽のまぶしさに眩んだ目も元通り闇に慣れるだろう――
『だからって――全部思い出したいって気も、ないんだ』
決心が揺らがないように自分を繋ぎとめた独房で、訪れた兄にそう告げられ、キルアは慣れかけていた目を見開いた。
なんで、と、覇気の無い疑問が口をつく。
昔のことを、弟である自分のことを思い出して、さっさと元の兄貴に戻ってくれればいい。そう思っていたキルアにとって、の言葉は眉を顰めるものだった。
一緒に過ごした時間をいらないと否定され、突き放されたも同然だ。
もうそっちへは戻らない。
日の当たる場所にいるからの宣言は、すべてを諦めて実家に舞い戻ったキルアにとって、耐性の無い毒だった。
……そうさ。アンタとオレは違う。
アンタは変われて、でもオレは、変われないんだ。
冷たい沼に身体を浸して、一人絶望する――しかしそれは、一瞬だった。
『大事な友達もできたし、すげー尊敬する人にも出会えた。自分なりにも強くなれたし、やりたいことも、ちょっと見え始めてる』
そう、照れくさそうに、しかし誇らしそうに話すが自分から遠い存在に思えるのと同時に――その表情が、揺らいで見えたのだ。
『正直、昔のこと思い出したら、そういう今とか、これからのことが、無くなっちまうんじゃないかって……思うトコがあってさ』
昔を思い出したら、今が無くなる。
想像して、それは、そう、だろうな、とキルアはゆっくり納得した。昔を思い出した兄が、満面の笑みでキルア―!と走り寄ってくる絵がちょっと思い浮かばない。
昔の兄に戻ったら、今のはいなくなる。
考えてみれば当たり前のことを意識した時、キルアは一瞬、幻視した。
日の当たる場所にいる兄を、暗がりから立ち上った影が追いかけ、絡み付き、引きずり戻そうとしている光景を。
今、自分がいるこの暗く冷たい世界は、兄をも諦めず連れ戻そうとしている。記憶を失うことで変化したものを根こそぎ奪い取って、元の暗がりへ。
が無意識にか衣服を握りしめるのを見て、キルアは理解する。
闇が、光を食い潰す。
それが――にとって、記憶を取り戻すということなのか。
『だから……ゴメン。必要以上に思い出したくないと思ってる』
ゴメン、と重ねる謝罪を、キルアは半ば聞いていなかった。
の現状を正しく理解し、霧が晴れるような思いだったからだ。
思い出さないことで必死で抗おうとしているのか。
友達がいると言った。
尊敬する人がいると言った。
その人達と一緒にいるために、そんな不安げな顔をしてまで、必死で留まろうとしているのか。
『オレは、兄貴みたいに変われない』
そう思っていたけど、違う、そうじゃない。こいつだって、自分を引きずり戻すものと戦いながら、やっとそこに立ってるのか。
……オレは、簡単に戻ってきてしまった。
だけど。
だけど、オレも懸命に、全存在を懸けるくらい必死になれば、アンタと同じ場所に行けるのかな。
ゴンにもう一度会えるのかな。
普通に、生きられるのかな。
オレも……兄貴みたいに、変われるかな。
母親とミルキを刺したことは悪かったと思っている。許可無く家を出、試験を受けたことも然り。子供じみた一連の行動を家族の誰かが“もういい”と許すまでは、けじめとして、独房に繋がれておくことをキルアは心に決めている。
でも。
その時が来て、責が消え、手足が自由になったら、もう一度ここを出たい。たとえ何と戦うことになっても、今度こそ必死に、死に物狂いで変わりたい――
その決意はまだ、“そんなことが本当にできるのか”、という自問によって固まりきっていない。だから“キルアが再び吊るされる姿なんて見たくないが自分には以下略”的なことを表情豊かに思い悩んでいるには悪いが、芽生えたばかりの決意は口にしないでおくことにした。
昔の兄らしさなんて欠片もないその顔を眺めながら、目を眇め、心の中で願う。
変わりたい。
オレ、変わりたいよ、兄貴。
「つーか、早く帰ったら? 用済んだんじゃねーの?」
手枷を転がしながらため息混じりに言うと、「あ、うん……」 は目に見えてしょげ返った。
キルアはさらに大きなため息をつきたくなる。
この家は、アンタを引きずり戻すものだらけだってのに。なんでいたいんだよ。オレのこと大好きかよ。
「キルア」
心もとなげに呼ばれて、キルアは顔を上げる。
に、そう呼ばれることが嫌いだった。『何も、覚えてねーじゃん』 ゼビル島でそう怒鳴ったこともある。兄は自分をキルアとは呼ばない。必ず“キル”と、そう呼ぶのだ。
けれど、今はむしろ好ましくさえ思えて、自分もゴンのことを笑えない単純さだと呆れ果てる。
キルア。
それでいい。覚えていないままでいい。
キルア。そう昔の兄貴からは想像もできないくらい屈託無く笑うたびに、自分もそこまで行ける気がするから。
「キルア……俺は、俺には、何にも言えないって言ったけど」
そこまで言って、一旦口篭る。
ためらっているのがありありと顔に出ている。だが、その唇は別れ際の名残惜しさに負けるように開かれた。
「それは、キルアの思う通りにやればいいって思ってるってことだから! いつでもキルアの味方だから! だからキルアのやりたいように……いや……」
もごもごと口を噤むが、本当は言いたくて言いたくてたまらないことくらい察しがつく。ここから出て自由になれ! そう強制してしまいたいくせに、こちらの意思を何が何でも尊重しようと奥歯を噛んで我慢しているようだ。
言えばいいのに。
と思う反面、“覚えていないくせに何が分かる”といったような負い目を彼に抱かせ続けたのは自分かもしれず、そこは罪悪感が無いわけでもない。
だが、味方になる、そう言ってくれるのはうれしかった。
変わりたい。
まだ口にしていないその決意を、まだ知らないはずなのに、後押ししてくれた気がした。
「……ゴンに、言っといてよ」
ガシャン、と両足首に枷を嵌めながら言う。
「まだ会えない。でも、待ってろって」
何だか、随分久しぶりに笑った気がする。
そんなことを思いながら見上げてみれば、そこにあるのあんまりな表情にまたつい噴き出してしまった。
泣くほどのことかよ、バーカ。
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