12.それは凶器
思えば、買ったブーツで砂漠を踏みしめるのは初めてだった。
スニーカーよりずっと歩きやすい、なんて確かめるのは後回しに、レックス達の姿を捜す。だが目より先に、耳が異常を察知した。
羽をばたつかせ、興奮状態でクエーッ! と鳴き喚くチョコボ。
指示を飛ばすハルモアの大声に、応える同乗者たち。砂漠を走る足音、武具の擦れ合い、そして――の背筋をなぞる低い唸り声。
荷台に体を寄せ、角からそろりと前を窺う。
二台に分乗したキャラバンが急停止したのは、やはり前の車が不測の事態に陥ったからであると、はすぐに理解した。
……爆走中のチョコボ車に突っ込んでくるモンスターは、いないんじゃなかったのかよ。
しかし実際、荷車は囲まれていた。
にとって最も馴染み深い脅威、人間大の獰猛な獣、ウルフによって。
負わされた傷の深さが、震えるの手を剣の柄へと伸ばさせた。
ろくに使えないくせに、何ができんだよ。そんな自問で一度手が止まる。しかし重なり合う咆哮が五指を剣にすがらせた。
握りしめたままカバーから抜けもしなかったし、両足も、砂にまとわりつかれたまま動かなかったが。
が見つめる先で、弓矢がウルフの胴を貫いた。
倒れ伏した同族を追い越して数匹が飛びかかるが、ハンターが避け、いなし、斬りつける。
突然ウルフが突き飛ばされたように跳ねたのは、きっと魔法だろう。
その光景を前に、は荷台に隠れるように、身を引いた。
あんな風に自分が戦えるとは思えなかった。思えない以上、とても加勢なんかできない。足手まといになるだけ――
いや、違う、と歯噛みする。
そんな言い分は、理性的なふりをしただけのでまかせだった。
本当は、ただ怖いだけ。
五体満足でも、こんな武器を持ってみても、あんな大きな獣には立ち向かえない。向かえるはずもなかった。
自分は、イヴァリースの人間じゃない。
ただの高校生なのだ。
犬より大きな動物に触ったこともなく、せいぜい動物園の檻越しに見る程度で、まして人間を餌扱いするような獣と対峙したことなんて。
「あ……」
何を最も恐れて、この手は震えているのか。
分かりかけて、だが、分かりきるまで待ってくれるような生き物は自然界にはいなかった。
気付かない内に、後ろの荷車へと忍び寄っていた影。がようやく戦慄したのは、迫る足音に振り返り、大きく開かれたウルフの口をほとんどゼロ距離で見た時だった。
積もり積もってとうとう弾け飛んだ恐怖に膝が砕け、それは結果的に牙を避けることに繋がった。しかし座り込んでしまったに、砂地で器用にブレーキをかけ、素早く向き直るウルフから逃れる術はもはや無い。
上下し続ける肩や胸は、過呼吸に近かった。
酸素欠乏で思考を奪われ、息苦しさに追い込まれ、カタカタ震えながらずっと握っていた剣を引き抜いた瞬間、はまったくの無意識だった。
片手ではふらついてしまった剣はガツンと荷台に当たり、跳ね返った反動でぶんっと砂地に落ちる。その予期せぬ軌跡が多少の威嚇になったのか、ウルフがやや後ずさる。
しかし後ろから寄ってきた別のウルフには知ったことではなかった。その挑戦的な咆哮に鼓膜を殴られたは、びくっと体に走った電気信号のままに振り返り、砂に沈んでいた剣をでたらめに振り上げた。
気付けば訳の分からない叫び声を上げていた。
怖いのか泣きたいのか自分を奮い立たせようとしているのか――分からない、でも、全部のような気もする。
怖い。
獣は怖い、立ち向かうなんて怖い、だけど、死ぬのはもっと恐ろしい……!
だが、思いは空回りして、剣をすり抜け跳躍したウルフの前足が両肩にのしかかった。重みに抗えず、砂、空、荷台、よだれまみれの牙と、目まぐるしく景色が変わる。耳元で狂ったように唸る獣に、自分はもう食われてるんじゃないかと錯覚して目の前が熱くなった。
死にたくない。
願いが体をつんざいた。
死にたくない、死にたく――
ぎゃいんっ、とウルフの鳴いた声が、少し遠くから聞こえた。どさりと砂地に倒れる音と共に。
こちらの荷車に回りこんできた、二匹の内の片方だろうか。なら、自分を襲った残りの一匹は……?
は、自分の視界が暗いことを一瞬不思議に思った。両目は開いているのに目の前が真っ暗な理由が、そうか、体にのしかかっているウルフのせいだとやっと思い至って、なぜか身動きせず、そして異様に重いそれを押しのける。青い空が両目を刺した。しかし、それ以上上の物体が押せなくなって再び訝しむ。
どうしてかは、見ればすぐに分かった。
息絶え、自らの体を支えられなくなったウルフが、の握る剣に突き刺さっていた。
いつ? と、まだ働ききらない頭が思った。
いつ、刺した?
のしかかられていた最中に無我夢中で? いや、飛びかかってきたその瞬間かもしれない、偶然あっちに向けていた剣の切っ先に、ウルフが。それなら、ほら、剣のほぼ根元まで、深々と串刺しになっているのも頷け――
の視線は、そこで止まった。
真っ赤な、剣の根元で。
言うまでもなくそれはウルフの血で、勢いはさほど激しくないが、とろとろと流れ、左右に張り出した柄を伝い、ぼたりぼたりとの腹の上に滴っていた。持ち手の方へと流れた分は、の右手を染めてもいる。
頭が冷えていく。
感覚がなくなるほど、強く、強く握りこまれていた右手も徐々に痺れが消え、血液の生温かさや粘つきが分かるほどに感覚が戻って――震えた。
ぬるりと血にまみれた手なんて非日常すぎて、早く元通りにすることだけが頭を占めた。しかし、離れない。剣から手が離れない。
血が接着剤にでもなったかのように、がどんなに顔を歪めて試みても離れてくれず、焦燥し、
「……こ、のっ……!」
力まかせに腕を振れば、動いたのは手ではなく、それに握り込まれて離れない剣の方だった。
刃が数センチ移動する。
血の勢いが一瞬増す。ばたばたとの体に流れ落ちる。刃が肉と血管を裂き、剣の腹が臓物をこする。そのすべてが持ち手から手のひらに伝わり、を総毛立たせた。
目が回りそうなほど押し寄せる拒否感の中で、右手はいつの間にか柄から離れていた。がむしゃらに死体を突き飛ばす。あとずさる。
「!」
焦った声で名前を呼ばれたのは、その時だった。
「怪我は!? ……して、ない?」
血まみれの腹部を主に見ながら、レックスはおろおろと瞳を揺らす。対象的に「おー、派手にぶちまけられたなこりゃ」 と茶化すのはもう一体のウルフから弓矢を抜くハンターだった。
思い出したようにの心臓は強く脈打っていた。生きていること、そしてウルフの死体はもう体に触れていないことを認識すると、喉から声を絞りだした。
「……ああ」
「良かった……役に立ったね、剣」
レックスは安心したように微笑むと、傍らに伏しているウルフへと向きを変えた。未だ深く刺さっているの剣、その血だらけの柄を握ると、ウルフを足で固定して一気に引き抜いた。
無論傷口から血が流れ出す。体毛や砂漠を染める赤から逃げるようには腰を浮かせたが、レックスは違った。まるで気に止めない様子で赤い砂をまたぎ、荷台から自分の鞄を引き寄せる。布の切れ端を引っ張り出すと、剣の柄、刃を軽く拭いとった。
「安い剣だと、錆びてすぐにダメになるんだ。まだまだの命守ってもらわないと……着替えもいるね」
今度は荷台の中まで上がり、の鞄を持ってくる。それは脇に置いて、ひとまず彼はさっきよりも大きく、綺麗な布を差し出してきた。
真っ赤な手で、受け取り、押し付けるようにして拭う。血はあまり取れない。
……俺が、刺し殺したんだよな。
そんな実感と共に、なかなかこびりついて取れない。
「しばらく行けば水場があるから、キレイにできるよ」
視線を上げると、剣の柄がこちらを向いていた。
受け取って、カバーに収めねばならない……だが。
この手で、その柄を、掴むまでにはレックスが訝るくらいの時間を要してしまった。
ナルビナ城塞は、ダルマスカとナブラディアの国境に雄雄しくそびえ立っていた。
本来なら通行証を見せて通り過ぎるだけの地点だったが、ハルモアのキャラバンは早めの小休止をとることになった。あれからさらに二度ウルフに行く手を阻まれ、体当たりされた荷車の点検と、チョコボのケアをする必要があったのだ。
「珍しいこともあるなぁ」
「発情期なんですかね」
やれやれと談笑している輪を離れ、は鞄を提げて賑わう市街地を抜け、城塞の門を出た。昇りつめようとしている太陽が、オアシスの湖面をきらきらと輝かせていた。
手も剣も綺麗になったが、すぐに戻る気にもなれず、かといってぼんやり座って、澄んだ湖面に映るだろう仏頂面を眺めていたくもなかった。
手並みぐさに着替えたシャツをバシャバシャと洗い出す。こっちの赤はまったく取れる気がしない。オシャカだ。
それでもバシャバシャやっている湖に、小さく影が落ちた。
「はい。長旅には甘いもの」
隣にしゃがんだレックスは、キューブ状の飴らしきものを摘まんでいた。手のひらの上に落としてもらい、口に放り込む。飴というよりは角砂糖。あっという間に溶け、あまり風味のないダイレクトな甘みが舌に染みる。
「……甘いっつーか、甘じょっぱい」
「塩分もとれて一石二鳥でしょ。汗かかされたからね」
レックスも一つ口に入れ、二人してしばらくもごもご口を動かした。レックスが、
「大丈夫?」
と唐突に尋ねてきたのは、口の中から甘味と塩気が消えかかってきた頃だった。
「何か、辛そうだから」
「別に……」
あ、と口を閉じる、が、禁句は既に言ってしまった後だった。ちらっと隣を窺い見ると、ぱちぱちとまばたきしているレックスと目が合い、やがて眉を下げて笑われてしまった。
「……」
笑われるとは思わなかった。
が危惧したのは“別に、と突き放されて気分を害した顔”だったのだが、これはどう見ても“別にってまた言っちまったよやべえ、と慌てるの様子が面白くなってしまった顔”だ。何だよ、気にした俺があほみたいだ。
だが、そんな風に慌てるの反応は、本当は辛いことがあると暴露したも同然だった。
そして、それを打ち明けずにいることを、レックスが望まないのも分かっている。
バツ悪く頭を掻き、は湖に視線を戻した。
うつむく。
仏頂面ではなかったが、何だかしょぼくれた顔をしていた。心配されても仕方ないような顔に、呆れてため息が出た。
「……お前からすれば、すげぇ、しょーもないことだと思うけど」
「うん?」
湖面の影で、レックスがこちらを覗きこんでいることを知る。それを見ないように、さらにうつむいた。
「……殺したの、はじめてだった」
レックスは何も言わない。息使いさえ聞こえてこず、反応が分からない。
だが表情は確認しないで続けた。見れば、もう言えなくなりそうだったからだ。
「虫とか、あと、魚くらいだったらあるけどよ、でも……あんなでかいの、刺し殺すとか、なかったんだ」
うん。
レックスの、短い相槌が聞こえた。
「あっちには、モンスターもいねえし、剣持ったり、でかい生き物殺すってのはむしろ犯罪で……」
うん。
それはたわいのない話を聞いているような相槌で、だから、も自然に話せたのかもしれない。
「肉とか食うけど、それ殺すのも、どっかの誰かがやってくれることで、俺には関係無くて、大体のヤツには、関係無くて……」
息を吐く。
段々、『だから、俺が殺すの初めてでも仕方ない』 という言い訳を並べているような気がして、口をつぐんだ。
剣とモンスターが日常の中にあるレックスには、どんな臆病者に見えているだろうか。こんなことに動揺して、恐れて、震えて、一応年上だってのに、すげぇ、情けない――
「俺が初めてモンスターを殺したのは、一年前、くらいだったかな」
思ったよりも最近で、意外に感じて顔を上げる。目が合うと、レックスは恥ずかしそうに苦笑いした。
「怖かったよ。それに、野生で凶暴だって言っても、コッカトリスってかわいい顔してるんだよ。飼ってる人もいるくらいで。だから斬るのは抵抗あった、だけど斬らなきゃ死んじゃうのはこっちだから……」
両手を見つめる様子は、さっきの自分に似てると思った。
「俺も、すごく手が震えた。結局その日は剣の血も拭かないで帰った。次に砂漠行くまで、ちょっと時間かかった。だから」
やさしい笑顔がこちらを向く。
「が辛いの、全然変なことじゃない」
「……っ」
何か言いたくて、けれど胸に詰まったものが邪魔をして、結局うつむいた。
やはり殺したという事実は自分にとって衝撃的で、あの肉を斬った感触は忘れられず、次またウルフを相手にした時に冷静にやれるのか、怖くならないか、このままずっと怖くて、この剣も持ちぐされになるんじゃないか――不安なことはいくらでもあり、何一つ解決はしていない。
なのに心は勝手に揺り動かされ、熱くなっている。
解決してもらったわけでもないのに。助言をもらったわけでもないのに。
人間ってこんな単純なのか。
ただ共感してくれるだけで、十分なのか。
鼻の付け根が熱いのは悟られまいと、は先んじて立ち上がった。
そういや、泣いた時とか、泣きそうな時は、いっつもこいつが傍にいるよな。
つーか俺泣きすぎ。今までそんなことなかったのに。……泣くようなことが、なかっただけかもしれねーけど。
「戻る?」
レックスの声に頷いて、は汚れたシャツを搾って丸め持つ。それから剣も、その重みを感じながら持ち上げる。
これは、凶器。
そう認識した上で、腰の革製カバーへと差した。
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