18. 鏡の記憶





 誰かが草を揺らす音。
 はすぐに息を潜め、幹に貼り付くようにして周囲を窺った。さわっ、さわっ……それはごく小さな足音だったが、雑草を踏みながら進むその姿をは確かに捉えた。

 常闇のおかげでほとんどシルエットに近かったが、そのひょろっと背の高い青年は、帽子を被った三人組の一人のように思えた。彼らはみんな別々の帽子を被っていて、こいつは、その輪郭から察するに……
 俺と同じようなニット帽だ。
 ちょっぴり親近感を感じつつも、それはひとまず置いておき、は少し離れた位置を通り過ぎていく背中を追って枝を飛び移った。

 まるで人目を気にするかのようにせわしなく首を左右に振りながら、一直線に走る。──これは、合格条件を満たし、森の出口へ向かっているに違いない!

 枝に着地するなり鞭を引き抜き、また飛ぶ。次の枝ではスローイングナイフを三本抜き出し、柄を指の間に挟み込んだ。
 あとは、いつ仕掛けるか。
 相手だって鈴を守るために、自分の周囲一帯を警戒している。下手な不意打ちをして逃げられてしまっては元も子もない。
 やっと訪れたチャンスを掴み損ねるわけにはいかなかった。確実に鈴を奪える状況が整うまで、標的を見失わないよう、つかず離れず追っていく。
 そうして十分ほど経っただろうか。
 前方を見やったは、目に飛び込んできた絶好のポイントに笑みを浮かべた。

 暗色に沈む森の中、そこには生き生きとした色彩があった。受験者達から空を奪っている枝葉、そこから、一筋の光が零れ差しているのだ。まさに天の恵みのような日だまりの中で、雑草がその緑をきらめかせている。
 日だまりはから見て拳大程度の小ささだが、
 いやいや、充分!
 はすぐさま足を速め、帽子の青年が来る前に位置取りを済ませた。

 絶対、合格する。
 そう強く意識すると、自然と心音がスピードを増した。鞭を一度離し、つなぎで手汗を拭う。

 俺だけ落ちちゃったりしたらシャルに合わせる顔が無いしな。それにライセンスで自分自身の情報を探さなきゃなんないし、絶対に合格してやるんだ。
 ……って、おいおい、優先順位変わってるよ。

 気持ちを落ち着かせるどころか何だかなごんでしまったが、帽子の青年が接近してきたのは見逃さなかった。
 青年が暗闇を裂いている木漏れ日を認め、迂回しようとしたその瞬間。
 はナイフを投げ放った。

 それは全て日だまりに命中し、思いがけない攻撃を目にした青年は、びくりと立ち止まる。
 すかさずその足を、鞭で絡め取った。
 勿論巻き付いた瞬間、青年も自分の右足を機敏に見やったが、"何が巻き付いたか"、彼がそれを認識するおそらくその前に、は枝から、青年とは反対側へと飛び降りていた。
 後はそう、滑車で井戸の水を汲む要領だ。
「うおおおーっ!?」
 と声を上げながら、青年は空中にさらわれていった。

「……ちょっと上げすぎたかな?」
 はさっきまでいた枝を見上げた。その少し下で、逆さ吊りになった青年がぶらぶらと揺れながら叫んでいる。
「く、くそっ、降ろせっ!」
「ん? オッケー」
 子どもっぽく笑い、鞭の柄を持つ手をパッと開いた。
 当然のごとく滑車は一方の支えを失い、
「は……はなすなああああっ!!」
 青年は頭から真っ逆さまに──



 落下して、星を散らして昏倒している青年が起きそうにないのを認めると、は先にひだまりの中のナイフを回収した。良い仕事してくれて、サンキュー。
 ナイフという一点に注意を向けさせ、生じた隙を狙う。初歩的といえば初歩的だが、確実な方法だ。
 だがこれも、暗闇にナイフを投げたのでは成立しなかった。音だけでは注意を引く力は弱く、逆に広範囲を警戒されてしまう恐れがある。視覚に訴え、一発で引きつける、これが重要だ。
 は愛用のナイフだけでなく、最大の功労者である木漏れ日にも感謝した。ああ、真っ暗闇とのコントラストのおかげもあるかもしれないな。ならそちらにも感謝だ、ありがとうございます。

 さて、とは青年の傍に寄り、衣服を探り始めた。
 鈴はポケットの中から簡単に見つかった。が、それは2枚の布にくるまれ、更に金属部の隙間には無理矢理ちり紙が詰められていた。これでは音がほとんど殺されてしまう。……あのまま耳を澄ませ続けるだけだったらちょっとやばかったかも、とは冷や汗をかいた。
 ともあれ、この状態で持っていけば今度は自分が安全だ。
 よっしゃ! これで合格目前!
 心の中でガッツポーズをしつつ、落とさないように大事に忍ばせておかねばと、つなぎの胸ポケットを開け──ようとした、その時。
 突如背後から迫ってきた風切り音に、作業を中断した。それがすぐ耳元の風を切り裂こうかという寸前に、は身を翻しながら飛び退き、そして、見た。
 なおも自分のすぐ目の前に迫り来る、風を切ってきた物の正体を。

 鎌──!?

 緩く湾曲した鋭い刃先が、退いてもまだ執拗に首もとを狙ってくる。
「くっ!」
 目一杯体を反らすと、切っ先は皮膚に突き刺さる手前で失速した。どうにか逃げきったようで、束の間、ホッと安堵する。
 その後何に気付こうとも、もう遅かった。

 鎌の長細い柄には、鎖が付いていた。
「なっ……!」
 初めから、狙いは首では無かったのだ。
 考えれば分かることだった。この試験の課題は"鈴の奪い合い"である。
 鎖は鎌をオモリにして、ぐるぐるとの右腕に巻き付いた。外さねば、と思う間も無く、鎖が揺れて右腕が大きく引っ張られる。

 その衝撃で手の中から鈴が零れ、大きく弧を描き──鎖の先にいた女の手に吸い込まれた。

「ふふ、油断大敵」
 あの化粧女だった。
 暗く、距離もあるが、着ている物がああも特徴的ならはっきりと分かる。上は大きな胸を隠すビキニだけ、下もギリギリの短さのミニスカート。そもそも残りの受験者で女性はマチと彼女しかいなかったので、見間違えるはずもなかった。
 ああ、しかし、そんな事より。
 せっかく手に入れた鈴をまんまと奪われてしまった事が、何にもまして重大だ。

「くそっ!」
 右腕の鎖鎌はすぐには外れない。
 ならば、と残った左手でナイフを抜き、間を置かずに投げ放った。ぴんと張った鎖に沿ってそれは風を切り裂いていくが、到達する前に女は鎖を緩め、鎌と共に高く飛び上がってしまった。何も無い空間を、ナイフがむなしく通過する。

 くそ、逃がすか、俺の鈴──!

 自由になった右手で、今度は胸元の拳銃を抜き出した。轟音が響き渡るだろうが、この際構っていられない。
 足を撃って動きを止める!
 そう全身に命令して構えた銃の、その先で突如、光がほとばしった。

「──!!」

 鏡だった。
 彼女が愛用していたコンパクトミラーが、先程が利用した木漏れ日を反射し、その光力を何倍にも膨らませての目に浴びせかけたのだ。
 目くらましのつもりなのだろう。
 しかし──

 には、それ以上の効果を与えることになった。

「──あっ──?」

 膝を落とした。
 その頃には鏡が反射する光も、彼女の姿さえ木々の向こうに消えていた、が、両目に焼き付いた映像は、いつまでも消えなかった。


 鏡

 暗い、暗い、真っ暗闇

 鏡

 暗闇の中、自分の姿を映し出し、そして光を放つ、鏡──


「か、がみ……?」
 無意識に口走った途端、頭に激痛が走った。
「つっ……!」
 金槌で横からなぐられたような、上から押さえつけられているような、内側からキリで穴を開けられているような、それらをいっぺんにやられたような耐え難い激痛。
 は頭を抱えたまま、その場に倒れ込んだ。体を折り曲げ、両手に筋が浮き出るほど強くニット帽を押さえる。それが脱げて銀髪が露わになっても、なお強く押さえ込み続けた。

「ぐっ、う……っ」
 目をぎゅっと瞑っても、映像は消えない。
 夜のように暗い森の中で、コンパクトミラーが、きらりと光を放つ。
 吸い込まれそうな暗闇、そして、そこに突然生まれる眩い輝き。それはやがて、まぶたの裏に現れたもう一つの、別の映像と重なり始めた。
 知らない、映像だ。


 暗い空、暗い地面。立ち並ぶ、暗い木々。
 目の前には、鏡がある。
 大きく、簡素な姿見だ。
 鏡はの全身を映し出し、そして、突然眩く光り──


「う……ああ……っ!」
 痛みがいっそう激しさを増した。
 きっと原因はこの、全く覚えのない映像なのだ。しかしいくら悲鳴を上げても、いくらのたうち回っても消えようとはしてくれない。

 何なんだ。

 痛みと映像に浸食されていく中、の、まだほんの少し残っている正常な意識が叫んだ。


 これ、一体、何なんだよ──!?





 どれくらい経ったか、意識が朦朧としているには分からなかった。
 映像も、激しい頭痛も、まだやまない。
 加えて凄まじい疲労感が、横たわったから身動きする力を奪っていた。
 ああ、おまけに幻覚まで見え始めた。
 90度回転している視界の中で、縦になって見える地面。そこを歩いてくる、爪先部分がにゅっと尖った靴。

「どうしたんだい

 ヒソカの幻覚だった。
 幻覚? ……それとも、現実?
 どっちでもよかった。息を荒げて激痛に耐えるのに精一杯の自分には、どうせそれを確かめる余裕も体力も無かった。

「鈴はもう見つけた? まだなら一つ、あげるよ
ヒソカの声に、は顔をしかめる。
その一音一音が、酷く頭を揺さぶるのだ。辛い、気持ち悪い、吐き気がする…

「ここに入れておくからね


 どうでもいい、早く、消え……


 その願いを最後に、は意識を手放した。






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ヒソカさん、鈴より心配する事が…。