26. 思考暗転





 ガラスのはまっていない窓から見える曇天は、圧迫感に満ち満ちていた。今すぐに雨を降らす物ではないようだが、厚くたれ込める雲は太陽を遮り、この廃校から唯一の光源を奪っている。
 とは言っても、あの常闇の森ほどの暗さではない。
 正面左、西側の昇降口から入ったばかりの目でも、並んだ下駄箱、倒れた消火器、外れてしまっている引き戸など、物の陰影はしっかり掴み取れた。慣れればあの破れたポスターの標語だって読めるだろう。

 当たり前だが上履きになど履き替えることなく段差を上がり、開けた玄関から真っ直ぐ東へ延びる廊下に差し掛かってふと、思った。
 こういう学校に来るのは初めてだ。
 清掃バイトでお邪魔した大学とはまた違う、一種独特な雰囲気を持つ内装。小さい頃は自分も通ったのだろうかと物珍しげに観察しながら──しかし神経は忘れず研ぎ澄ませ、薄暗い廊下を進んでいく。

 あいつ、俺のこと嫌いっぽかったからなぁ。
 問答無用でしかけてきそうだ。

 廊下の先は暗闇に消えている。高さと奥行きが無い分、横幅が結構あるように感じたこの校舎。この長い廊下を、おそらくモズもこちらへと向かっているはずだ。
 このままぼうっとしていたら、先手を打たれそうだな。
 は目が慣れてきたのを確認した後、静かに足を速めた。

 そういえばシャルが言ってたっけな、俺は足音がしないって。
 別に意識はしてなかったけど……こういう時には便利だなぁ。

 そう、呑気な笑みを浮かべながら。





 廊下が突然開けた。
 広い真四角のスペースには、"卒業記念"と書かれたパネル絵と上へ伸びる階段、右を向くと下駄箱と締め切られたガラス戸が見えた。正面昇降口だ。
 という事は、ここがちょうど真ん中か。
 進むのをやめ、まだ先へと続いている廊下を見据える。奥はやはり暗くて見えず、誰かがいる気配もない。
 二階に回り込んでいるのかも知れない、とは階段に遠い昇降口の方へ身を寄せた。壁と下駄箱が作り出す直角。それを背にして死角を無くすと、手探りで自分の武器に触れた。この状況で一番頼りにできるのは、やはりこれだろう、スローイングナイフ。

 来るなら来い、姿を見せた途端に仕留めてやる。

 勿論殺さないように、と心の中で付け加え、両手の指にナイフを挟み込んだ。
 この1年野宿をする方が多かったは、こういう事には慣れていた。何かの気配をいち早く察知し、返り討つ。いかに相手が山ごもりの(実際にしたかは知らないが)武闘家といえ、こういう勝負で負ける気は──

 ──と、早くものセンサーは鋭く反応し、同時にその手を閃かせた。目にも留まらぬスピードで空を裂いた3本のナイフは、しかし何を射ること無く壁に突き刺さる。
 いない。
 そう認識するや視線を辺りに走らせようとした、次の瞬間。
「──!」
 思いがけない衝撃が左頬に訪れ、は何が起こったかも理解できぬままに下駄箱に体を打ちつけた。
 何がどうなったかは分からない、が、自分に攻撃してくるのはヤツだけだ。はとにかく衝撃が襲ってきた方向へ、残った片方のナイフを投げ放った。しかしそこには既に何もなく、ナイフは空しく床に刺さった。

 ……いない。
 頬を押さえながら起きあがったは、周囲の気配を窺って、呆然とする。誰も居ない。
 両手のナイフが尽き、つなぎの裾から新たにナイフを1本取り出した。軽く振ると金属音と共に銀色の刃が飛び出す、折りたたみナイフ。投てき用の物より少し大ぶりであるそれを階段の方へ、左右に伸びる廊下の方へと構えながら目を光らせる。
 今のは不意打ちを食らっただけだ、二度と同じヘマはするもんか…。

 建物に吹き付ける風の音。
 校舎内で停滞する、重苦しい空気。
 どんなに神経を尖らせてもその二つしか感知できないに、攻撃は再びやってきた。

 今度は背後。やはりは、背骨が折れるかと思うほどの衝撃を受けるまで何も気付くことができなかった。
 前のめりに倒れ込み、だが寸前で左手をついて、背後へとナイフの刃を薙ぐ。
 しかし手応えはなかった。空振り。そこにはもう人がいた気配すらなく、は背中の痛みに顔を歪めながら愕然とした。

 な、なんで……!?

 間髪入れずに何かに足を払われ、無防備な右頬が何かに揺さぶられる。校舎内にはが床に沈む音だけが響いた。もう確かめる気にもならなかった。どうせモズの姿はない。
 数秒後、は苦しげに息をしながらも顔を床から剥がした。ダメージを負った体は確実に重さを増している。まずい。呆然とする一方だったは、ようやく自分と相手の差を感じ始めていた。

 あいつ、強い。
 その姿さえ捉えられない俺は……このままじゃ……

 負ける。
 その言葉が過ぎった瞬間、は体を支える両手に力をみなぎらせた。ふらつきながらも立ち上がり、見えない敵を、潜んでいるであろうモズを睨む。
 負けるわけにはいかないんだ。
 俺は合格する。
 不合格じゃ……四次試験で助けてくれたシャルに、合わせる顔がねぇ!

 戦意を奮い立たせるように折りたたみナイフをパチンと鳴らした──その時。
 ほんの鼻先の所で声がした。

「弱いな」

 機敏に反応してナイフを振るも、やはりと言うべきかモズはいない。まずかったのは、の精神が疲弊していて、ナイフを振るった後の腹部ががら空きになってしまった事だ。
 その瞬間、モズは初めてその姿をに見せた。わざと見せたのかもしれない。もはや普段の反射速度を大幅に欠いてしまっているに、身を沈めたモズの蹴りが深くねじ込まれた。
 くの字に曲がった体はそのまま吹っ飛び、壁面に叩きつけられる。
「──がはっ……!」
 飾られたパネル絵が、無惨にひび割れた。


 床に落ちたの脳裏に、また"敗北"の二文字がちらついた。それに抗おうと広げた目は床にとても近く、ひた、とそれを踏みしめて近付いてくる裸足が見えた。
「大きな口を叩くからには、どんなに実力があるかと思えば。最初の一発で沈まなかった耐久力だけは褒めてやる、が……」
 ボロボロの道着に隠れた膝が、床につく。
「この程度でいきがっていたか」

 モズ。
 試合開始前まではなめるどころか、気にも止めていなかったその男が、今はとてつもない存在感を纏っている。
 刃のように鋭く、だが波の立たない湖のように静かな殺気。それを放つ肉体は、一体どれほどの年月をかけて鍛え上げたのだろう。
 ははっ……少なくとも一年じゃあ、ねーよなぁ……
 激痛で視界すら揺らぐ中、は自嘲気味に口端を上げた。

「ぐっ……」
 その笑みはすぐにかき消えた。モズは作業つなぎの襟元を無造作に掴むと、こちらの痛みなどお構いなしに無理矢理身体を引き上げ、つま先さえ床から離してしまったのだ。とて軽い方ではないのだが、モズの引き締まった腕には造作のない事なのだろう。
 反対側の、同じように筋肉質な腕をぐっと後ろに引くと、その拳を固め、モズは一際低い声で言い放った。
「殺しはしない」

「……ルール、だもんなぁ……」
 掴み上げられているおかげで苦しくてたまらないが、それでも黙ってやられるのはシャクだった。手も足も出ずにぶっ倒されて、これじゃあ皮肉の一つも言ってやらなきゃ気が済まないじゃないか。

 だが、鼻で笑ってやりたいのはこちらなのに、そうしたのはモズの方だった。
「ふん……例えルールでなくとも、殺したりはせん」
 黒い、伸び放題のあごひげの上に微かに笑みが浮かび──ふっと、消えた。
「お前とは違う」

「ど……」
 どういう意味だ。そのたった七文字すら声に出せないでいると、それを表情で読み取ったのか、を鋭く見上げながらモズは答えた。
「武術とは、己を生かす術だ。しかし同時に敵をも生かす事が正しい道だと俺は師から教わった。命を奪うことは、どんな理由があれど悪……だからこそ」
 その静かな湖面のようだった目が、徐々に波立っていく。
「だからこそ、断じて許せんのだ」
 襟を掴む手に籠もった力が、自然との喉元を締め上げた。
「人の命を簡単に奪っておきながら、平然としているお前のような人間は……!」

 心臓が、大きく音を立てた。
 思い当たる事はある、ありすぎる。四次試験の終わり、自分の投げたナイフが二人の受験者を絶命させた事──きっとモズはそれを言っているのだ。
 故意ではなかった。平然としていたわけでも決してない、だが、モズの手になお強く押さえつけられた喉は弁解の言葉を発することができなかった。

「……お前のような人殺しを、ハンターにさせるわけにはいかない」
 高ぶりを僅かに残した言葉に、心臓が、音を立てて軋んだ。

 モズはさらにを高く掴み上げると、微かに右肩を引いて攻撃態勢を取った。
「安心しろ、殺しはしない。ただ、二度とナイフは握れないと思え」
 モズの腕……彼が不殺生の信念の下で鍛えた腕にびきびきと筋が浮かんでいくのが目に映った。映っただけだ。呼吸も満足にできず、酸素欠乏に陥ったの頭は朦朧とし始めていて──心臓の軋みさえ遠のいたそこに聞こえてくるのはもう、さっきのモズの言葉だけだった。
『お前のような人殺しを、ハンターにさせるわけには──』
 憎しみすらこもったその言葉が、何重ものエコーと共に頭の中を駆け回る。

 人殺し?
 俺が?

 ……人殺し?


 ぱきん、と鳴ったのは後ろのパネル。ひび割れが進み、耐えきれずにまたいくらか崩れたようだが、まるでそれが再生ボタンの合図だったかのように頭にあの時の映像が溢れだした。

 明らかな敵意と武器を持って襲いかかってきた受験者。不意の出来事に、しかし的確に反応した自分の手。
 その手の延長ともいえるナイフは、空を裂き、真っ直ぐに敵の急所を貫く。すなわち喉と、心臓。刺さった刃の縁から僅かに溢れ出した鮮血と共に、絶命した彼らは地面に落ちていく──


 ──……何が、間違ってるんだろう。


 焦点の合わない瞳を、中空に彷徨わせた。

 ……確実に相手の動きを止めたければ、殺せばいい。そんなの当たり前のこと。何も間違ってない。
 ……殺せばいいんだ。
 ……何もためらうことはない。


 ……ずっと、やってきた事じゃないか。


 加速度的に曖昧さを増していく意識は、眠りに落ちる前のまどろみにも似ていた。酸素が足りない。思考も、感覚も失われていく……なのに、頭の中にはっきりと響く声がひとつあるのは何故だろう。

 
早く帰っておいで

 その声の主の姿が脳裏に過ぎりかけた──瞬間、それは打ち消された。
「人殺しは、この世に必要ない……っ!」
 自分を掴み上げる男の声、そしてまぶたの隙間からかろうじて見えた、回転をかけられながら鋭く繰り出された拳によって。
 思考が、黒く淀む。


 ……やられる?
 ……俺が?
 ……こんな奴に?


 ……冗談じゃない。


 自分の中で何かが渦巻いたのを感じた瞬間、の思考は暗転した。






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