37. 能力者
身構えたまま見渡した金庫室は、何の異常もなく綺麗な白い床と壁を保っていた。立って顔を出してみた通路も、通ってきた時と変わりなく地下ならではの静寂に包まれている。
しかし、耳にはびりびりとした残響がはっきりと居ついていた。ブルドーザーでも突っ込んだような今の音は気のせいなどではない。
……こいつの仲間、まだいんのか?
室内にいるヒゲの強盗犯へと振り返っただったが、当の彼は後頭部に喰らわせた一撃で気絶してしまっていた。
人質だった中年行員の方も、ようやく解放された途端のこの音だ、頭を抱えてがたがた縮こまっている。こちらも何を訊いても無駄なようだった。
仕方ない、見てくるっきゃねーか。
モップで肩たたきしながら踵を返す。そして彼らを残し、終わったと思った強盗犯退治の延長戦をやるべく金庫室を走り出た──
その直後だった。
「──っ!?」
全身を駆け上がってきた不快感に、は跳ねるように後ろへ飛び退いた。
足を踏ん張り、すぐさま顔を上げる。……が、早鐘を打つ心臓とは裏腹に、目の前に伸びるのはただの廊下だった。
少し先で二つに分かれ、その分岐点では強盗犯が二人仲良く気絶しているが、これは来る時に自分が殴り倒しておいたのだから何の疑問もない。彼ら以外に人はおらず、また、いた形跡もない。
しかし辺りを警戒し続けるは、それをやめようとはしなかった。
表情は強ばり、やがてそこを一筋汗が伝う。
まるで、空気が違う。
照明に白く輝いているはずの壁や床が、薄暗く見えて仕方がないのもおそらくそのせいだ。密度の濃い、重苦しい空気に呼吸もままならず、それでいてぴんと張りつめた冷たさが冷や汗を誘う。
例えば、何日も物を食べていない肉食獣にじっと見られているような──この上ない嫌な感覚に、肌がざわつくのを抑えられない。
な……何だよ、これ……。
目が自然と逃げ道を探して、その時ふと小さく舞い上がる粉塵を見つけた。
思えば少し粉臭く、息苦しいのはそれも一つの要因だったのかもしれない。三叉路を挟んでこちらとは反対側に伸びる、まだ足を踏み入れていない通路からそれは這うように流れていた。
正直、ブルドーザーが突っ込んだのなら一階かと思い込んでいたのだが、どう考えても異変があったのはこの先、90度に折れていて見通せないが、粉臭さも嫌な気配も濃く漂うこの通路の奥に違いない。
……見に行かないわけには……
いかないよな、と、両手を服に擦りつけて汗とためらいを拭い取ると、虎穴にも似た通路の先へと武器を構えた。ゆっくりと息を吐き、言い聞かせる。
五人ぶっ倒してきたんだ、六人目も同じ、勢いだ、勢い……!
まとわりつく不穏な空気を鼻から無理矢理吸い込むと、今度は吐き出さずにぐっと止める。そうして意を決すると、は逃げ出したい気持ちを置き去るように一気に駆け出した。
"貸し金庫室"。そう書かれた金色のプレートが通路の壁にはかかっていたが、視界の隅であっという間に流れ去る。地下に降りてきた時そのままの勢いで、はモップと共に曲がり角の向こうへと飛び出した──が。
「い……っ?」
ほとんど、つんのめるように立ち止まった。
その動作で舞い上がった粉塵が、い、の口のまま固まってしまったの前でゆっくりと沈んでいく。眩しいくらいの照明の下、きらきらと。つまりは、あれだけを威圧していた暗い気配が、瞬間、通路中から綺麗さっぱり消え去ったのだが──どうでもいい事だった。
そんな事に気など止めていられない程、予想外の視線には貫かれていた。
彼は、瓦礫の平野に立っていた。
その足下で、からりとコンクリートの欠片が転がり落ちる。白い粉が舞い上がる、床を静かに這っていく。
とにかく床は一面燦々たる状況で、中でも目を引くのは銀色のドアだった。一般的な長方形だが、金庫室の丸扉に遜色劣らないような厚さを持った、おそらくとても頑丈な代物。それが……ボディブローをまともにくらってもんどり打ってる人間を想像させるようなひしゃげ方をして転がっていては、いくら彼がロビーでいくらか言葉を交わした時と同じ、人の良さそうな微笑みを浮かべていても困惑を禁じえない。
扉がはまっていたのであろう突き当たりの壁に、それはまあ、どでかく、無遠慮に空いた穴。
粉と化した壁材をぱらぱらと落とし続ける大穴の、その真ん前で腕を組んでいる黒髪の男がおもむろに口を開いたのは、が彼の佇まいに本格的に戸惑い始めた時だった。
「フェルビニア」
驚くわ、意味が分からないわで固まるに、彼は笑顔のまま続けた。
「花の名前。知ってるかい?」
はな……?
そんな事を訊く意味も、それで何が言いたいのかも、そもそも何故彼がこんな所にいるのかも全くもって分からない頭を、は横に振った。そうしている内に跳ね上がっていた心臓も少し落ち着いてきたので「……花屋ではバイトした事ないんで」と呟いてみると、黒髪の男は面白そうに微笑んだ。どこまでもこちらの内心を見透かしたような笑みだったが。
「世界中に改良種の出回っている、ありふれた花だよ」
言いながら、彼は大穴の奥へと歩いていった。その姿が死角へ消える前に、も慌てて後を追いかける。
「でも元は高山植物でね」
声のする室内を覗く。
「以前は北方のノルタッシュ山地でしかその深紅の色を見ることができなかったんだ。降り積もる白銀とのコントラストは写真家を魅了するに充分、かの地方の書物でも赤、とりわけ血の色を比喩するのにその名がよく登場する事から、文学者にもこの花を愛する者は多いね」
そこは金庫室と変わらない広さの、だが決定的に違う物に取り囲まれた部屋だった。銀色の、鍵穴の二つ付いた、頑丈そうな引き出し。それがいくつもいくつも、何段も何列も並んでいる様は今朝立ち寄ったロッカールームを彷彿とさせたが、断然こちらの方が安全そうだ。
"貸し金庫室"。プレートは先程見落としたが、沢山の金庫が持つ役割は何となく理解しながら部屋を見回していたを、
「そして」
男の声が引き戻した。
「そんな愛好者によってフェルビニアの名が冠された一つの宝石が、ここに保管されている」
こつん
彼が真後ろの金庫を小突いた瞬間、ぎくりとした。
見れば黒髪の男の周りは、引き開けられた金庫で溢れかえっていた。中には床に落ちて、歪み、無防備に中身を晒している物もある。さながら今もの斜め後ろの方で転がっているドアのように。
それでもまだ数えきれない未解錠の金庫に囲まれて「まぁ、このどれかにね」と困ったように苦笑する男を、果たして世間一般では何と言うだろうか。
「あ、あんた……」
信じがたい。しかし室内の荒れようは明らかに"物色"した跡を彼の背後に見てしまうと、ロビーでの印象は根こそぎ忘れた方が良さそうだった。
結局ここにいたのは、想像していた通り六人目だったという事だ。
「あんた、あいつらの──」
「仲間じゃ無いからね」
「──はい?」
「あ、掃除ありがとう。手間が省けたよ」
ずっこけそうになったの持つモップを指差し、男は言った。
「元々目をつけていたこの銀行へ、あいつらが揚々と乗り込んで行くのを見かけてね。先を越されるのは大した事じゃなかったけど、"フェルビニア・ブラッド"──紅水晶の硬度がそう高くないという事は問題だった。まだお目にかかっていない獲物に傷でもつけられては面白くない。だから」
オレも乗り込んだんだ、と笑う彼は見事なまでの好青年ぶりだったが、今更その通り無害な人物だとは思えるわけがなかった。
『流れ弾は困るから』
ようするにあれは人質ではなく、獲物とやらを心配した言葉だったのか。そしてモップを渡された自分は、そのために良いように使われた……だとしたら。
俺は、なんて脳天気なんだ。
……と今日何回目かの頭痛を感じた時、
「で、どうする?」
何の脈絡もなく、質問は投げられた。
へ? と間抜けな返事と共に見たのは、笑みをにわかに消して腕組みを解く男の姿だった。その右手だけがゆっくりと上がる。
「結局オレも泥棒なわけだけど──」
瞬間、周囲は一変した。
「捕まえる?」
「──ッ!!」
薄暗いだの息苦しいだの、そんなレベルでは無い。
真正面からのその圧力の前では呼吸など不可能だった。扉を軋ませ、瓦礫を震わせ、全身を総毛立たせて突き抜けていく威圧感と共に、真っ白な通路は一気に黒く染め上げられ──
はっ、とした時には、床が随分遠い所にあった。
天井に触れる頭、直角に折れた壁に突っ張る手足を感じてみれば、すぐに自分がどこにいるのかは分かった。
ここにいたくない。逃げ出したい。金庫室から走り出た時よりも強い衝動に駆られて思いきり飛び退いた結果、無意識に貸し金庫室から一番遠い廊下の隅をこんなに高く登ってしまったらしい。
蟹のごとく手足を広げてへばりつく体勢はそれはそれは不格好だったが、しかし、それを自覚しても下に降りる事はできなかった。
肌はまだびりびりと、感じた殺気を覚えている。震える指、動かない足。そこへ這い上がってくるのはこれも身に覚えのある、自由を奪うようにまとわりつく、ゾッとするような冷たい威圧感だ。
さっきのも、今のもこの人。それは分かるが……分からなかった。
マジで、何なんだ、これ。
唾さえうまく飲み込めないでいると、じゃり、瓦礫を踏みつぶす音が耳に突き刺さり、更に総毛立った。
「分かりやすい返答だけど……」
時折床本来の響きを混じらせながら、止んでは鳴り、止んでは鳴って近付いてくる足音。どこから取り出したのか、その右手が携える分厚い本はここからではとても小さく見えたが、威圧感の中心にいる彼の両眼は、確かに斜め上空、こちらを真っ直ぐを射抜いていた。背中が凍るような、笑みと共に。
「オレとしては闘いたい。君の能力を、見てみたい」
「……の、う?」
思わず出した声は、驚くくらい掠れてしまった。まだゆうに十メートルは離れているだろうに、まるで喉元を掴まれているような気分だ。それでも、頭の中はひっかかった単語だけが占めていた。
それに付随する言葉なんて世間にはいくらでもある。けれど"昨日の今日"だ。の頭にはある一つしか思いつかなかった。
本を片手にまた少し距離を詰めた男の、その背後に広がる光景を一望してみると、壁から引っぺがされた金属扉も散乱する瓦礫達も、今更ながら昨日見た物と重なるばかりだった。すなわち、シャルの手に防がれ、あまつさえぱきんと折れてしまったナイフとだ。
これを、この人がやったのだとしたら……。
「あ、あんた、もしかして……」
半ば確信しながら、は声を絞り出した。
「……"念能力者"?」
男の口元から、今までたたえていた笑みがふっと消えた。
数秒後、ぱたんと本を閉じる音がして、それをきっかけには水面から顔を出したような心地を覚えた。通路中を支配していた殺気が霧が晴れるように消え去った、いや、彼が自分の意思で消したのだ。
あらゆる圧迫から解放されたのは良かったが、ずる、ずる……と時間をかけて床へと降りたの胸中は晴れなかった。
首もとをじっとり濡らす汗、なかなか整わない息、鉛のような疲労感。
……絶対に敵わない。
そんな敗北感をにはっきりと刻み込んだ男が、気付けばすぐ目の前にいた。
「妙な事を言うな」
じっとこちらを見とがめる視線に、は壁に背を擦りつけ、息を呑む。それを更に追い込むように男は低く囁いた。
「オレが念能力者かどうか、同じ立場でありながら判断できないとでも?」
「ぜ……全、然」
口をぱくぱくさせる一方で、やっぱり、という感嘆にも似た納得が心の内を占めていた。やっぱり、そう、なんだ。
『オレもマチもお前の強さに気付いてる、それは同じ念能力者だからだよ』
つまりこの人はずっと分かっていたという事だ。
不本意ながら誰の目にも清掃業者にしか見えない自分に、なぜ、「捕まえないの?」と促してきたのか。ずっとひっかかりを覚えていたのは思えばその事だったが、他の人には清掃業者でも、この人だけは分かっていたのだ、"そうじゃない"と──
「……い?」
すらりと長い人差し指が、鼻先に立っていた。
が気付くまで待っていたらしく、そのまま誘導するように、彼は人差し指を立てたまま隣の壁に向かい立ち、そしてそれを不規則に揺らし始めた。
ぽかんとするだったが、何もない空中を見つめている内にふと鳴らない鈴とマチの呆れ顔を思い出した。……もしかして、見えないだけ?
左から右へ、まるで紙の上の文字をなぞっているように空中を滑っていた指は、やがて終点まで行き着いたのか、その場を離れて腕組みの中へと収まった。
何か、それこそ文章を書いたのかもしれない。
……なんて予想し、目を痛くなる程細めてみたところで、背景の壁がただただクリアに見えるだけだった。男は三歩離れた所からの反応を窺うような視線をよこしていたが、視力検査の一番下が見えない人の顔以外は見つからなかったに違いない。
「……とぼけているわけでは無さそうだな……」
そう呟いたのを最後に、彼は考え込むように顎を落としてしまった。
結局これは何なんだ、と尋ねるために恐る恐る「あの」と声をかけたが、見事に無反応。仕方なく、また目を線のように細めて壁とにらめっこを続けていると突然、くつくつと笑う声が背後から聞こえてきた。
「な……何すか」
「いや」
男は顎を下げたまま、肩を揺らしていた。
「もう何もない壁をひたすら見ている姿が、あんまり滑稽で」
「……え゙」
顔をひきつらせるを置いて彼は歩き出した。やがてぶっ壊れた貸し金庫室の壁を背にして立ち止まる。手招きした。
「何が書いてあったか。手伝ってくれたら教えてやる」
今日は本当に、こう思う事が多い。
……俺、何やってんだろ。
中でも今、泥棒さんのお隣で、銀色の丈夫な金庫をどうにか引き開けようと必死で格闘している自分については、本当に何をやっているんだろうと思う。
だが黒い瞳を前にして、断る事など出来なかった。こういう状況を、確かこう言うのではないだろうか──ヘビに睨まれたカエル。
「確かに」
お隣からの声にびくっとした。
「確かに、無自覚に念を身につけている例は存在する」
見ると泥棒さんは、その本来の仕事はせずに腕組みで壁にもたれかかっていた。
「芸術的分野で活躍する者、人心掌握に長ける者、心身練達の結果知らずとも念の域に達した者──だが彼らはお前のように『あなたは念能力者ですか?』などと人に尋ねたりはしない。何故だと思う?」
「へっ?」
もしかして俺パシられてる?という疑問に一生懸命だったは慌てて振り返った。勿論返答に困るに、どうやらただ注意を向けさせるために声をかけただけらしく、男はさらりと答えを言った。
「彼らは無自覚ゆえ、"念"という概念自体を知らない。そんな質問できるはずがない」
「……はぁ」
やはり曖昧な返答しかできないでいると、ふと彼の目がこちらに注がれているのに気が付いた。
「ああ、俺は……」
「手を止めない」
……そっちから振ったくせに。
理不尽さを覚えながらも、しぶしぶ取っ手に手をかけ直す。力を込める。
「昨日っ、知り合いにっ、聞いたんすよ……っ」
「……昨日、知り合いって……」
鍵のかかった金庫は、かなり頑丈だ。
「言ってて嘘っぽいとは思わないか」
「知る、かっ!」
隣の金庫に片足をかけて、全力で後ろに引っ張ってもみしみし言うだけで開いてはくれない。これを相手に物色していたのかと考えると、念能力者とは……恐れ入る。
くそっ、俺だって(多分)そーなんだもん!と、今度は全身を反らせる勢いで思いっきり引いた瞬間。
さすがに耐えかねた金庫が予想外に飛び出しの額を直撃した。
「……ったああー!!」
中に入っていた書類まみれになってひっくり返るに、「役立たず」 と壁際から声がかかる。手伝わされてからこれでやっと一個目なので返す言葉もなかったが、
「だが、運は良いようだ」
一転してすぐ近くから聞こえた褒め言葉には驚き、そして目をみはった。
腰をかがめ、書類束の下を探った彼の手には真四角の、小さな箱が握られていた。
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パシられ体質。
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