40. 逃走劇




 目が覚めて一番最初に見た物は、空中に浮かぶ文字だった。
 "自分で片づけろ"
 何を。
 起き抜けの命令に傾いだ頭が、ごつん、と何かにぶつかった。
 それが自分で倒した机の足だと気付いた瞬間、朝からの事、そしてこの部屋で自分にあった事が全て蘇ってきた。

 ──は、花、真っ黒い花──!!

「ひぎゃあっ!」
 飛び上がった途端、足に何かが絡まった。
 ──トゲトゲの茎!?
 戦慄し、椅子や引き出しやゴミ箱が散乱する床を悲鳴を上げながら飛び越えた。
 足に巻き付いたコードの先で、電気スタンドががっしゃんがっしゃん音を立てているのにも気付かないまま、逃げ場を失った壁際に背を擦り付け、必死の形相で振り返ると──
「見えないのか」
 ベッドで足を組み、空中の文字を指差す男と視線がかち合った。
「見えてるだろう?」




 数分後。
 「何で俺が」という訴えは無言で却下され、は渋々"片づけろ"の命令に従って一本足の机を起こし、それに椅子を揃えていた。
 これらがひっくり返ったのは部屋に放り込まれた時なのでまだ覚えがあるが、その他は……全くだ。特に棚の引き出しに至っては、一体どう暴れれば全部が全部飛び出して、ベッドの向こう側にまで散らばるというのか。
 無我夢中すぎて記憶にない──が、そんな恐慌状態に陥らねばならなかった理由だけははっきりとまぶたの裏に焼き付いていた。
 拾い上げた引き出しの、その下から現れたものに顔をひきつらせる。
 ……ああ、この絨毯の焦げは、アイツんだ。

 花。
 時間が経つ程にもう暴れる事もできなくなり、疲れ果て、いよいよ死ぬんだ、と空虚な顔で仰いだ天井に唐突に映り込んだのは、花だった。
 文字通り目と鼻の先で、漆黒の花びらを大きく広げる花。溶解液をよだれのように滴らすその中心は、まるでニタリと笑うようにぱっくりと開かれて──

 思い返して、ゾッとした。その拍子に引き出しは床に落ちてしまったが、構わず鳥肌の立った両腕を抱きしめる。
 ──あれが、"念"。
 そうっと離した両手を、目の前で広げてみる。それをまんべんなく覆う物が、もうには見えていた。
 風のない湖面のようになだらかな輪郭を持ったそれは、両手だけでなく、全身を冷めたお湯のような生ぬるさで包んでいる。しかし重さはなく、感覚自体は今までとそれほど変わりなかった。……元々あった物、だからだろうか。
 ──これが、念。

 作業つなぎはあちこち破け、焼け焦げ、その下にある裂傷や火傷は絶え間なく痛みを発していたが、あの花の化け物の棘の鋭さにしては不思議なくらい軽いように思えた。きっと怪我を保護するようにたゆたっているこのオーラとやらが、盾の役割を果たしたのだ。出血が少ないのも、そう。
 こうしてオーラを体表に留める技術を"纏"と言うらしいが(ファミレスで聞いた覚えもあったが、ちゃんと理解したのはクロロの言葉でだ)、自力で留めている、という意識は無かった。多分"留めない状態"にしろと言われる方が難しいだろう。見えたからといって自由自在とはいかないらしく、クロロが続けて言った絶も練も肌身で実感するには至らなかった。
 だが──……どうでもいい事だった。
 シャルが教えてくれた念能力をこうして目にした感慨や、この力で何ができるのか、どんな世界が広がるかという興奮や期待感などは全く沸いてこない。正直、念能力という物自体、今は本当に、本当にどうでもよかった。
 今にとって最も重要なのはただ一つ──

 いかに、この部屋から逃げるかだ。


 引き出しをしまいがてらチラッと動向を窺ってみると、クロロは変わらずベッドに座ったまま手に赤い宝石を遊ばせていた。しかし目はこちらを向いている。
 向いていなくとも狭いシングルルームだ、せいぜい二メートルしか離れておらず、しかも向こうの方がドアに近いというこの位置関係で逃げおおせるとは思いがたい。
 重く息を吐きながら、床に転がる電気スタンドに手を伸ばす。
 しかし脱出を計るなら、この片づけが終わる前しかなかった。練がどうの、能力がどうのと念に関する説明をやめないクロロの意気揚々とした表情はとてもここから解放してくれるようには見えず、片づけが終わったが最後、待っているのはさっきの続きとしか思えないからだ。
 ……確かに、こうしてオーラが見えるようになったのはさっきのアレのおかげなのかもしれない……でも。

 花に恐怖を覚える必要があったなんて、思えないんですけど……っ!?

 切実な思いをぶつけるように音を立てて電気スタンドを置いた棚。それが接している窓の外をふと見ると、そこには自由の青空が広がっていた。
 この窓は隣のビルに面しているはずだが、どうやら二階建ての低い建物のようで、三階のここからだとすぐ下にコンクリートの屋上が見える。

「………」
 一度置いた電気スタンドを、もう一度手に取った。
 これしかない。無理かもしれないが、他に思いつく術もなかった。
「……あ、あの」
 意を決して呼びかけると、を縛る視線がにわかに強さを増す。う、と怖じ気づきそうになりながらも、その目がほんの少しの間でも別方向へ向いてくれる事を祈って、乾いた唇でこう尋ねた。
「……今、何時っすか」
 思惑通りクロロの注意は一瞬その手首にずれ──たのを確認する前にもう、は電気スタンドと共に窓を突き破っていた。盛大な音を立て、粉々に砕け散る窓ガラス。普通に考えて弁償ものだが──

 ごめん、俺、自分の命の方が大事っ!!

 着地したビルの屋上を蹴り、降り注ぐガラス片をあっという間に置き去っていく。そのまま走り幅跳びの容量で路地の谷間を飛び越えるまでの速さは、一年という短い人生の中でも最速だと自負できた。
 が、それでも不安は全く消えない。
 今にも手が伸びてきて、首根っこを掴まれるんじゃないか──しかし、三つ目の屋上を走り抜けても何故か、追ってくる気配はまるで感じられなかった。
 四つ目、五つ目と過ぎても同じ。スピードを緩めて振り返ってみても、後ろには青空と、走ってきた屋上が連なっているだけ。
 拍子が抜けた。
 ……何で? 諦めた? 逃走、成功?

 決死の覚悟で飛び出してきた分、信じられない思いだったが、
 ……それならそれでいっか。
 と口元を緩めてすぐに走り出した。
 一段とひび割れの酷いこの六つ目の屋上の前方には、倍以上も高い七つ目のビルが壁のように行く手を遮っていた。
 通りへ方向を変えるか、入り組んだ路地へ降りるか。
 それは一瞬たたらを踏んだ、その時だった。

「──っ!」
 安心しかけていた背中を撫で上げたのは、漆黒の気配。
 やっぱ逃げ切れなかった、と悟るにはそれだけで充分だった。
 今日何度も味わってきたその恐怖の代名詞に、ほとんど突き落とされるようには細い路地へと飛び降りた。高さは十数メートル、汚い石畳に着地するとさすがに重力が両足にのし掛かったが、背中に貼り付いた危機感はすぐにを目の前の窓へと飛び込ませた。
 窓にガラスもはまっていなければ、中は埃しか無いがらんどう。そんな廃ビルの窓枠の下にしゃがみ込むなり、自分を抱きしめるように縮こまった。
 ぎゅっと襟元を掴む。静まりかえった世界に唯一響き渡る、破裂しそうな心臓の音を押さえ込むように強く。
 落ち着け、落ち着け心臓、ああもう止まってもいいからお願い落ち着け!
 無理だ、と悟ってしまった自分に残された手段はもうこれだけ、このコンクリートの壁と同化する勢いで隠れる事だけだった。見つかったら最後だ。

 お願いだから来るな来るな来るな……! 俺はここにはいないから、もう全然、全っ然いないから! だから絶対来るな来るな来る──

 不意の足音に、本当に呼吸が止まりかけた。
 喉の奥をひきつらせたまま、汗がすっかり染みこんだ襟元を更に握りしめる。しかしそれ以上身じろぎはせず、通りの方に目だけを向けた。……あっち、から、か?
 答えるようにまた足音。それから──
「なんだ、出来てるじゃないか」
 声がした。

「思い出したのか? それとも纏と同じように無意識に?」
 通りから路地へ、建物を周回するように移動する声に、呼吸の自由はすっかり奪われてしまった。今最も逃れたいその男が話しかけているのは、紛れもなく身を縮めている自分だ。
「後者なら、またあらためてその身に自覚させる必要があるが……」
 壁一枚隔てた背後を通る。の心臓を跳ね上げて、そのまま通り抜けていく。
「しかしその絶といい、窓を割った時に一瞬見せた練といい、一応は及第点だな」
 その時、足音がぴたりとやんだ。
 来る──! と緊張と絶望がピークに達したが、再び静まりかえった空間に溶けたのは、ふ、と端を上げた口元が想像できるような吐息だった。
「及第……合格……まるでごっこだな。でも、たまにはいいか」
 そうだな、そうしよう。一人で納得するように繰り返した後、彼は揚々と言った。

「これからオレの事は、師匠と呼べ」

 …………はあっ!?
 思わず、口から飛び出しそうになった声を、どうにか喉へ押し戻した。……何つった? 何つったよこの人? し、し……
「オレ、形から入るの嫌いじゃないし」
 知らねーよ!!
 ……と、突っ込みの声を上げることはできなかった。
 それはみすみす居所を教えるわけにはいかないから、ではない。声を出せなかったのは、するりと足の先を撫でられた感触に身体中が凍り付いてしまったからだ。
 生き物のように茎が這う。暗闇で大輪の花が笑う。
「い……」
 零す唾液でコンクリートの床を溶かしながら。

「いぎゃあああああああ!!」

 悲鳴がこだました建物内へと、足音は方向を変えた。
「そいつの索敵能力は"円"よりも広範囲で精度も高い」
 靴の音、そして声が徐々にがらんどうの中で反響し始める。
「ストーカーたる由縁かな。無論そこには執着の度合いが絡んでくるわけだが、その点はやはり問題ないらしい」
 やがて今最も会いたくない男、クロロはとうとう目の前に現れてしまったが──
「ぎゃああああーッ! 嫌だあーッ!!」
 いやもう、全くそれどころではなかった。

「いーッ! 嫌だ、花は嫌ーッ!! 降ろせーッ! 降ろして、お願いーッ!!」
 今回巻き付かれたのは腕及び胴体だけだったが、自由な足をどんなに振り回してもそこに床はなかった。
 力持ちな植物によって身体はぎっちぎちに逆海老に固められ、叫ぶ声は目の前の汚い天井に跳ね返るばかり。こんな体勢では確信しようもないが、おそらく下で獲物を罠にはめた猟師のごとく笑みを浮かべているのだろうクロロは、のお願いに対してやはりとても楽しそうにこう言った。
「師匠と呼ぶならな」

 迷わず、叫んだ。
「降ろして師匠ーーッ!!」




 絶対……
 絶対に、花屋ではバイトしない……。
 そう心に決めながら、はコンクリートの上に両手をついていた。懐かしい手触りに安堵の息を吐く。が、当たり前のように同じ床の上を踏んでいる黒いスラックスと靴に、すぐに顔を引きつらせた。
 クロロ=ルシルフル。
 命には替えられなかったとはいえ、この男を師匠と呼んでしまった事は不覚だった……が、同時に痛感せざるを得なかった。やはり逃走など無駄だった事、そしてこれから先もこの男から逃げる事は不可能なんだということを。

 今度はうなだれるように息を吐いたは、ふと床の一部がオレンジ色に染まっている事に気付き、驚きと共に顔を上げた。
 ……ま、まじで……っ?
 頭は一気に、今日の本来の予定を思い出していた。

 急いで周りを見渡しても時計はなかったため、仕方なく目の前の人に尋ねる。
「今何時っすか!」
「お前、性懲りもなく……」
「はっ、いや、今回はホントに……!」
 手を合わせて頼むと、ようやくクロロは「四時」と答えてくれた。さっき見たせいか腕時計には目を落とさず、ガラスの無い窓を見やりながら言う。
「ああ、この辺りは暮れるのが早いな」
「そうっすねー、うんうん、本当に……それじゃ、俺はこの辺で」
 さらっと話を流しながら入ってきた窓に手足をかけるも、すぐに襟を掴まれ、ほぼ叩きつけられるように床に引き戻された。背中を打ってぎゃっ、と鳴いた腹の上へ「やっぱりか」と呆れるように言う誰かさんの足が降る。

「ぐえっ! ……に、逃げるんじゃねえって! んなこと無駄だって泣きたいほど分かってるよ、だからとりあえず、足……!」
 少し浮いた足の下から素早く這い出したは、痛む背中と腹をさすりながら立ち上がり、まだ疑いの目を向けているクロロへと──
 小指を差し出した。
 それを、訝しみながらも同じように立てたクロロの小指に素早く絡ませる。ブンブン上下に振りながら、早口でこう歌った。

「ゆっびきっりげんまん、どーしてもやんなきゃいけない用事があるけどっ、終わったら絶対ここに戻ってきーますっ!」

 めちゃくちゃ不本意だけど!と心の中で叫びながらも、時間を惜しむかのように早口でこう言い切る。
「うそついたらはりせんぼんのーますっ、ゆびきった! それじゃ!」
 がしっ
 と首根っこを掴まれたかと思うと、やっぱり力任せに引きずり降ろされ、足をかけた窓枠は遠ざかっていった。さっきと同じように背中を打ち、更にセットで降ってきた足を、これはさすがにギリギリかわして訴えた。
「指切りしたじゃん!」
「勝手にするな」
「ぎゃ!」
 かわした足がもう一度降ってきて今度はしっかり胴を抉ったが、しかしこちらが頼む前に重さは消えた。はそろりとクロロを見上げる。
「用があるのは構わない、が、口約束で帰すほどバカじゃない」
 その手に握られているのは、電話の出来る小さな機械。
「とりあえず、住所とケータイ番号は?」

「……どっちも、無いっす」
 正直に答えると、あからさまに「は?」という顔をされた。
 ……ああ、されると思ったさ、そういう反応。でも、でも……!
「どっちも無いからこうやって急いでんすよっ!!」
 つい腹の痛みも忘れて苛々と立ち上がり、ポケットから全財産を引っ張り出してみせた。手持ちはたったの360……いや、ロッカー代を引いて260ジェニー。それをぎゅっと固く握りしめて訴えた。
 この食うにも困る状況の中、今日は朝から働き口を探そうと張り切っていたというのに、まぁあれよあれよと流されている内にもう夕方。
 このままじゃ今夜もベンチで夜明かしするハメになるんだよ!!
 と、力一杯叫び終える頃には息さえ切らしてしまったが──ふと、目が点になった。それをぶつけていたはずのクロロの姿が、目の前に無かったからだ。
「そうか、宿無しか」
 真後ろから声がしたかと思うと、その方向へ息が詰まるほど襟を引っ張られた。

「なら、ウチへ来ればいい」

 ……は?
 と、またまた目を点にしたの真上で、クロロは一方向を指差していた。
 通りとこの建物と、その方向。どんなにゆっくり位置関係を整理してみても、指先が示しているのは──あの、ガラスを突き破って出てきた安宿だった。
「一緒にいれば連絡手段も必要ない。バイトもしなくていいし、うん、それがいい」
「よ、よくねーし!!」
 一人勝手に事を進めるクロロに慌てふためいた。

 だ、だって二十四時間この男とあの花と一緒なんて、確実に死んでしまう!!

「お、俺は働くの! ちゃんと寝るトコ自分で見つけて、ここへはそっから通うから! 指切りもするから、だから離せ! 職探しさせろーっ! はーなーせーっ!!」
 手足をばたつかせて真っ暗な未来に抗うも、
「職探しねぇ……」
 それを片手で簡単に制しながら、クロロは呆れたように一言、こう言った。
「その格好でか?」
「……え」




 数時間後。
 は窓ガラスの割れた部屋にいた。勿論自分で割った、だ。
 カーテンがばさばさと当たる窓枠の向こうはもう薄闇が支配し始めていて、今日という日の終わりを本格的に告げようとしている。繁華街方面ならまだまだこれからだろうが──少なくともにとっては終わっていた。

 たとえ今すぐバイト探しに駆けずり回っても、絶対どこにも受からない。
 理由は簡単。……こんなズタボロの、血だらけ傷だらけの怪しい奴を雇う人間なんていやしない。それだけの話だ。

 俺のせいじゃないやい……!!
 ふてるように椅子の上で体育座りをしていると、面接以前に落とされるようなズタボロ服にした張本人がドアを開けた。
 すぐ戻るから逃げるなよ、とを真っ黒な笑み一つで椅子に縛り付けて行ったクロロは、おでかけ時間十分足らずでお土産を持って帰ってきた。
 まず足下に投げられたその白い布は、広げてみれば作業つなぎだった。
 ただし胸元にはネコネコ宅急便というロゴプリント、襟には赤い斑点付きの、明らかについさっきまで誰かが着てお仕事していた感のある作業着だ。

 ……こ、これは……。
 着ろ、という事なのだろうが、とりあえずこの赤い斑点がまさか元持ち主の血だったりしちゃわない事を確かめようと顔を上げると、また何枚かの布が今度は頭に被さってきた。
 一つは値札のついた無地のシャツ。もう一つは薄手の毛布。
 つまり衣食住の、衣と住。
「…………」

 やばい、このままじゃ、養われる……!!

 覚えた危機感に与えられた寝床を振り払い、椅子から飛び降りようとした瞬間、狭い部屋にぐうっと大きな音が響いた。
 どう考えても、自分の腹の虫。そういえば最後の食事は昨日の夕方のハンバーグだったが……だからといって、何も、今……!!
 ニヤリ、と笑ったクロロの反応は、椅子の上でばつの悪い顔のまま固まるの予想通りのものだった。
「ピザでも取るか?」

「…………」
 一応、葛藤はした。
 しかし結局欲求に負け、新しいつなぎでアツアツピザを貪る男の姿があったという。




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長い一日、養われてやっと終了…。