41. 水見式
新しいネコネコ宅急便のつなぎを着て、新しいバイト先を見つけたのはあの長かった日の翌日の事だ。
日払い給料から、「別にいいのに」と渋るクロロに服代を無理矢理受け取らせ、部屋代も半分払う事を約束し、どうにか養われの身からは一日で脱却。
同居人へと昇格し、そして──それから二週間が経とうとしていた。
くらくらする。
体が重い、立ってられない。
汗が止まらない、水、水はどこ──
「……あー……」
数時間前の事を思い出し、は落胆の声を漏らした。脱水症状に陥る事は分かっていたので用意し、隠し持っていたペットボトルはまんまとクロロに見つかって、没収されたのだ。
ついさっきも同じように水を求め、同じように落胆した気がする。頭がくらくらしてきちんと働いていないせいだ。きっとまた忘れて、またがっかりするのだろう。
白い作業つなぎは袖を抜いて腰で縛っているにも関わらず、ぽたり、と顎から汗がしたたって、貴重な水分が床に弾ける。
「ぐ……っ」
濡れた床に足をとられないよう踏ん張り直し、からっからに乾いた口内で歯を食いしばって、は身体中からオーラをほとばしらせ続けた。
クロロが帰ってくるまで、"練"をし続けること。
それが今日の課題だ。
昨日と同じ課題を与えられたのが朝十時。そして今の時間が……午後五時半。
ベッド脇の置き時計に目をやると、その視界がくらり、と余計に揺らいだ気がした。
……何で帰って来ないんだ。
昨日は二時頃戻ってきたのに。そんでくったくたになってつい練解いちゃってた俺に罰だっつってあの本からとんでもないモンけしかけたくせに。だから今日は死ぬ気で、死にたくないから死ぬ気でこうして練ぶっ続けてんのに何で帰って来ねーの? つーかどこで何してんの? つーか……水……っ!
この安宿(聞けば一晩千五百ジェニーとか)に炊事設備は無いが、入り口脇の扉を開ければバスタブとトイレ、洗面台がある。コップもそこに置いてある。
水さえ飲めれば頑張れる。……多分、あと少しくらいは。
そうは思っても、部屋の中央からバスルームまで、約十歩という気の遠くなるような距離をこの鉛のような両足が踏破できるとは思えなかった。
俺、何で……
いやいやいや、とぼんやりしかけた意識を持ち直した。ダメだ、この期に及んで疑問なんか浮かべちゃあ。んな事したら集中が、ああ、でも──
俺、何でこんな事してんだろ……
ふっ、と力が抜けた。抜けてしまった。
練をやめ、纏まで解いて膝に両手をつく。反動で体がよろける。
開きっぱなしの口でぜいぜいと呼吸しながら、は泡になっていく七時間半の努力に絶望していた。しかし同時に、もうクソ疲れる練をやらなくていいんだという甘い誘惑がまぶたを重くさせていく。
この一年、こんなに疲れきる事があっただろうか。道に迷って樹海を五日彷徨った事もあった、大型リボルバー拳銃欲しさに日に三つバイトを掛け持ちした事もあったが、どれ一つとしてこの重力が何倍にもなったような疲労感には及ばない。
もう……たって……られない……
狭い部屋に、汗だくの男一人が倒れ込む音が盛大に響く。当の本人はそれを聞くよりも前に夢の世界へ旅立っていた。
俺、何やってんだろう。
あの銀行強盗の日から二週間が経つが、そう自問しない日は一日も無かった。
何せふと気付けば、ついこの前会ったばかりの──しかも軽く何回か殺されかけてる相手が同じ部屋にいたり、師匠と呼べなんて言っているわけなのだから。
ただ念に置いてだけ言えば……日に日に自分のできる事が増えていくのは喜び以外の何ものでもないし、そういう実感をした時はつい想像してしまうのだ。
『驚いたな』
次に会った時の、感心するような友人の顔を。
『まさかもう念を覚えてるなんて。すごいよ、』
顔面に冷たい衝撃を受けた。
次いで溺れたような感覚が気管を襲い、咳き込みながら起き上がる。それが朝自分が用意したペットボトルの水で、誰かが真上でひっくり返したのだと理解してもなお、しばらく鼻と喉の痛みは治まらなかった。
「けほっ……何、すんっ」
「寝ていろと言った覚えはないが?」
「ひっ──」
被った水もかいていた汗も冷え切った。鼻の痛みなんて、それを上回る恐怖に塗りつぶされてしまった。
この部屋に帰ってくるのなんて、この人以外にいないじゃないか俺のバカ──怖々見上げたそこにはやはり、この世で最も恐ろしい二つの漆黒が存在していた。
「ち、違……五分! 五分前まではちゃんと! でもホント限界で……!」
「ほう」
抱えていた小さな茶色の紙袋を、中身が金属製の物なのかコトンと高い音を鳴らしながらテーブルに置いたのち、クロロは悠然とこちらを見下ろした。
「喋れる元気はあるのにか?」
その手に一冊の本を出現させて。
未だに何故本を出現させるかはよく分からなかったが――それが何の合図かだけは、はもう分かりすぎる程に分かっていた。
「ひ、ひえ、勘弁……ぎゃあああああー!!」
十分後、は部屋の隅の隅、天井のコーナーにへばりついていた。
「……さ……魚は食うものであって……食われるものでは決して無い……」
疲弊した体をガタガタと震わせるに、クロロは窓を開けながら言った。
「もう出る時間じゃないのか」
この隅からでは置き時計は見えなかったが、さっき見たのが五時半だ。確かに六時からのバイトにはそろそろ出なければ間に合わない。窓の修理費のためにも働く事はやめられない。
でも……
壁をずるずる落ちながら、は確信していた。
ぶっ倒れるまで練やらせて、超肉食の魚を三匹もけしかけたあげく、そんなクールな顔をして午前二時まで続く居酒屋バイトに送りだそうとするのは……
鬼だ。
練やら花やら魚やらで俺の命の炎が危うく消えかけるたびに『安心しろ、殺しはしない』なんて言ってるけど、本を開く時のあの目はそうとは思えない。大体寝るトコだって指定されたのはトイレの前の廊下だし、部屋代半分って約束だったのに最近何でか全額払わされてるし、すぐ蹴るしすぐ踏むし、人間としてどうかと思ってたけどそうだよこの人人間なんかじゃなくて鬼──
「」
「は、はい何にも思ってませんごめんなさい!」
すっかり身に染みついた条件反射で飛び上がり、同時に身を走った疲労からの激痛に「うッ!」と呻いたが、そんな無駄な動きはしなくてよかったようだ。
別にの心の中の愚痴を察知したわけではなく(この人の事だからできそうな気もするが)、ただ紙袋の中身を取り出しながら、その事で呼び止めただけらしい。
「終わったら、真っ直ぐに帰ってこいよ」
テーブルの上には、丸っこいワイングラス、それから小さなポトスの植木鉢が並んでいる。
「何すかそれ」
腰で縛っていた袖をほどき、腕を通しながら尋ねても、クロロは何も答えなかった。帰ってから、という事らしい。
まぁ、どうせ寄るとこも無いからいいけど……。
どこにも寄らず、いつも通り真っ直ぐここへ帰ってくるつもりだった。
しかし既に時間は午前四時。ベッドで足を組むクロロは今にもあの黒い本を開いて魚をけしかけそうな目をしていたが、この二時間オーバーは決して自分の責任ではない。
袖口を摘んで、つなぎを示して見せる。
「……あのさぁ、この、クロロがくれた……」
「師匠と呼べ」
「…………」
ため息をついてから言い直した。この人は、何故かすごくそこにこだわっている。
「師匠のくれた、この服さ。まぁ、あん時から気にはなってたんだけど……さっき、この事でさ」
反応を見逃さないように、下からジィッと目を光らせる。
「おまわりさんに職質されたんだよね」
相槌を打たずにただ微笑んだその顔は、間違いなく"心当たりのある"表情だった。
夜道でを呼び止めた警官によると、二週間前この近辺で殺人事件があったそうだ。首を折られて死んでいたのはネコネコ宅急便の従業員で、その制服は剥ぎ取られていたという。
「連行されそうになって、全速力で逃げてきたよ。で、さ。まさかとは、思うけど……その犯人ってさ……」
「ん、オレだけど」
……あっさり認めないで……ッ!
九割方疑ってたけど、一割くらいは無実を願ってたのに…!!
「同じような服がいいだろうと思って探してたら、丁度良く通りかかってな、気が利くだろオレ……って、何涙目でクローゼット漁ってるんだ」
「前の服捨ててないっすよね、あ、あった!」
「着るのか? そんなボロ」
「いわく付きのもんよりマシだ!!」
ネコネコ宅急便の胸ポケットから元のつなぎへと大事な持ち物(ケータイ番号が二つ書かれたアンケート用紙くらいのものだが)を急いで移し替えていると、後ろから手慣れたように襟首を引っ張られた。
ああ、襟と言えば宅急便のお兄さんの血が付着していたのはその部分だった、そして、きっとそうしたのはこの掴んでいる手──
寒気が走って、パニクった。
「は、はは離せーッ! ああああんたやっぱ俺の事殺さないなんて嘘だろ! 殺す気満々だろ! 通りすがりのネコネコをやっちゃうくらい容赦ないんだから俺の事だって気が向いたらぷちって潰すんだろ! ぎゃーッ! 首を触るな! 折るなーッ!!」
「夜中に騒ぐな」
ガンッと殴られてブンッと放り投げられて、は思いきり背中を打った。だがそれは床でも棚の角でもなく、丸みのある椅子の背もたれだった。
「……あ?」
椅子にきちんと着席する格好になったの目の前にはテーブルがあった。そこに置かれているのは、夕方見たグラスと植木鉢。加えて水をたっぷりたたえた水差しの三つ。
クロロはその水差しを持ち上げると、グラスに表面張力するくらいなみなみと水を注ぎ入れた。飲むにしては多い、と思って見ていると、更に彼はポトスの葉を一枚ちぎり、振動で揺らめく湖の上にその小舟をそうっと浮かべた。
「水見式と言ってな」
残った植木鉢はベッドの脇に飾られて……準備が終わったらしく、クロロはテーブルに手を付いた。
「"発"の修行に用いるものだが、まずはこれで、お前の念の系統を見る」
「系統?」
「知り合いの能力者に、色々聞いたんじゃなかったのか?」
「いやぁ……纏とか絶とかその辺しか……あ、発は知ってる。あれでしょ、必殺技!」
意気込んで答えると、やれやれ、と言う風にクロロは頭に手をやった。
「まぁ、説明するのも教える内か」
と、ため息をつきながらベッドに座り、足を組む。と、不意に思いついたようにその顔を上げた。
「二週間こうして修行してきて、記憶がいくらかでも戻ったという事は……」
「全然!」
もう一度、ため息を吐かれた。
「念には、六つの系統がある」
椅子ごと体を向き直らせて、はふんふんと頷いた。
「すなわち強化系、放出系、変化系、具現化系、操作系、そしてオレのような特質系」
言葉に合わせて、クロロの手の中に本が出現する。
「ちなみに"ビューティフルストーカー"と"密室遊漁(インドアフィッシュ)"は、共に具現化系能力だ」
……ああ、花と魚ね、とは苦笑いをする。当分魚料理はゴメンだ。
この人の能力のせいでどんどんトラウマが増えていく……と頭を抱えそうになって、ふとその"この人の能力"が矛盾している事に気が付いた。
「何で花と魚は具現化系能力なのに、クロ……師匠は特質系なの? 系統、違うんじゃねーの?」
「……余計な所に気が回る奴」
「え?」
「いや。……特質系は他の五つの系統の型には当てはまらない能力の事だ。他の系統の能力を複数持つ事ができる、オレはそういう特質系能力者なんだよ」
「はあ……」
よく理解しないまま、色々省いた説明なのにも気付かずにとりあえず頷く。
まさか花と魚が他人から盗んだもので、自分も獲物の一つだなんて気付く由もなく、そのままの注意は「詳しい事は後だ」というクロロの言葉でグラスの方へと促された。
「お前のオーラがどの系統に属しているか。それを選別できるのがこの水見式だ。グラスに手をかざして、練をしてみろ。そうすれば分かる」
「練を……」
言われた通りに両手を、グラスを包むような形でかざして──ふと、離した。
どうした、早くしろと急かされるが、"自分のオーラの系統"とやらを知る前にどうしても訊いておきたい事が頭を過ぎったのだ。
「その……オーラの系統っていうのは、生まれつきとか、そういうもんなの?」
おそるおそる、窺うように。尋ねたに、さすがの"師匠"はその言葉に隠れる真意に気付いたようだった。
「ああ。……たとえ記憶喪失になったとしても、その人間の性質自体はおそらく変わらないだろうな」
クロロが言い終わったのと、彼のポケットの中で呼び出し音が鳴ったのは同時だった。「練だぞ」と言い残してケータイ片手に廊下へ出て行ったクロロを見送った後、は言いつけに従い、再びグラスに手をかざす。
少し不安だった。
生まれつきの性質は変わらない──つまり、記憶を失う前から持つ性質が、今からこの両手の中に現れるという事だ。
……昔の俺も、したのかな、水見式。
これから発現する系統の念能力で、殺し屋をしていたかもしれない自分。浮かんだ暗い想像は目を瞑って打ち消し、はオーラを練った。
*
「……そうか、大体予想通りだったな。後でデータを転送しておいてくれ。……オレか? ああ、まだカラザ市に」
ケータイ電話から聞こえてくる仲間の声以外に、背をつけているドアの向こうから微かに自分の名前を呼ぶ声がした。水見式の結果が出たか……って、師匠と呼べと言ってるのに。
しばらく続いた沈黙に『どうしたの』と電話越しに問われ、意識をそちらに戻した。
「何でもない。データの方、頼んだぞ、シャル」
早めに切り上げて、クロロは部屋の中へと戻った。
彼の取得してきたライセンスのおかげなのか、頼んでおいたレゾンの獲物の情報は思っていたより早く得られたようだ。
近い内、シズクを伴って盗るか──考えながらベッドに腰掛けると、その仕事の頃には能力搾り取っておさらばする予定の弟子が辿々しい口調で報告してきた。
「あの……なくなっちゃったんすけど……」
「水の量の増減は強化系。葉の移動は操作系だ」
「いや、あの……」
頭の大半を旅団の仕事で満たしながら答えていたクロロだったが、の何だか困り果てたような口ごもり方に、顎に当てていた手を離した。
自分で見分けがつかないのか?
半ば呆れてを、そしてテーブルを見る。しかしそのクロロ自身もまた、状況が理解できず困惑する事となった。
「……水も、葉っぱも……全部」
が目をぱちぱちさせながら呟いた通りだった。
なみなみ注がれた水も、そこに浮かべられた葉も、果てはそれらを内包していたはずのグラスさえ、テーブルの上から忽然と姿を消してしまっていたのだ。
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やっとちゃんと念能力修行
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