42. 望む事




 かざした両手の中で、グラスがぼんやりと薄らいだ時は見間違いだと思った。
 しかし目を擦る間も無く、そうじゃないと気付く。
 グラスも水も、浮かべた葉っぱも、何もかもが確かに──まるで霧にでも溶け込むように、目の前からかき消えてしまったのだ。




「無いな……」
 テーブルの上をじっと見つめてクロロは呟いた。
 表面に手を置き、確かめるように撫でる。その様子を、は椅子の上で固まったままハラハラと見守っていた。
 自分の物ではないような感じがする両手を、膝に擦りつける。そのままぎゅうっとズボンを握りしめたかと思えば、やっぱり自分の手の感覚が嫌になってポケットに突っ込む。落ち着かなくてまた出す。
 自分のやってしまった事に、ちょっとしたパニック状態だった。

 ふ……普通、物って、消えねーよな。

 そんな当たり前を覆してしまった両手にぞっとした。
 そりゃあ花に魚にその他諸々、念がとてつもなくトリッキーだという事は充分解っているつもりだったが──自分がやったとなると話は別だ。
 正味一年の短さとはいえ、小さく稼ぎ、小さく使い、(この街以外では)特別大きな問題も起こさずにつつましく放浪してきた人生にこんな事があっていいのだろうか?
 いーやダメだろ、ダメだって! そりゃ強くはなりたいけどこんなハチャメチャな事俺求めてないよ。そもそもこんな非常識な事、いくら念でもありえんのか? ありえるとは思えない。系統とか言ってたけど、いくらなんでもコップが消えるのに何系もくそも──
「うるさい、少し黙れ」
「──ひっ」
 圧力のある一睨みにビクッと縮こまった。どうやら途中からブツブツと口に出してしまっていたらしい。
 だ、だからって、そんなに怒んなくても……
 それ程、テーブルに向かい合うクロロは真剣らしかった。テーブルを撫でるその手が端から端まで、何に引っかかることもなく滑っていく様子を口を閉じて見つめていたはふと、今までとは違う事でぞっとした。
 ……まさか、グラス弁償しろなんて、言われない……よな?
 ちょっと斜めの方向へずれたの心配をよそに、いつしかクロロはその表情を嬉々としたものに変えていた。

「特質系、だろうな」

「……え、とくし……何?」
「お前の系統。グラスが丸々消失、なんてどの系統にも当てはまらない。特質としか考えられない」
 ……あったんだ、系統。
 微妙に安心しつつ、コップ消えるのもアリってやっぱ念ってトリッキー……と再認識していると、さっきから妙に嬉しそうにテーブルを撫でていたクロロがつとこちらを向いた。
「で?」
「で、って?」
「覚えは?」
 クロロの表情は、それはそれは期待に満ち満ちていた。
「特質系とは、他に類を見ない極めて特殊な性質の事……実際これだけ変わった反応なんだ、少しは思い出した事もあるんじゃないのか?」

 少しドキッとした。
 何か思い出すんじゃないか。
 にも、そういう予感はあったからだ。
 自分の生まれついた性質を知る、という水見式はイコール、昔の自分を知る事にも近かった。昔の自分も水見式をしたのなら、きっと同じ結果を目にする事になる。だからこそグラスに手をかざした時も緊張と不安で一杯だったのだが──
「……いやぁ……」
 ふるふる、とは首を振って否定した。
 こんな非常識ありえねーんですけど、とドン引きしたに覚えなどあるはずもない。そんな結果に終わって、拍子抜けしたような、でもちょっと安心したような……複雑な気持ちを入り交じらせながら首を振ったに、突然真横から本の背表紙が襲ってきた。
「いッ!!」
 椅子から吹っ飛ばされる程の強烈な一撃。派手に床に転がった後、ぐわんぐわんと揺れる頭を押さえていると、とてもわくわくした顔のクロロが覗き込んできた。
「どうだ?」
「は……?」
「ショック療法。好きだろお前」
「す……好きっていつ誰が」
「それでどうだ、何か思い出したか?」
「出すか!」
 こんなんで思い出してたらこの一年苦労してねーよ!! と力の限り叫ぶと、クロロは一転、しれっとした顔で舌打ちした。
「なんだ……最初はうまくいったのに」

 最初って、花か。この二週間命の危険すら感じてきたペナルティの数々は、あれで味をしめたからか……!!
 目に涙を浮かべて抗議の炎を燃やす弟子とは対照的に、本で肩をトントン叩きながらため息をつく温度の低いクロロ。だが睨んでいる内にすぐまた子どもみたいな笑顔へと戻っていった。
「だがせっかくの特質系だ、何が何でも思い出してもらわなければ」
 頷きながら楽しそうにそう言ったかと思うと、分厚い本を握る右手を振り上げて──
「というわけで、もう一発」
「スススストップーッ!」
 制止は届かず、咄嗟に前へ突き出した椅子の盾は凄まじい音を立てて砕け散った。それはもう、原型が残らない程バッキバキに。木片を握りしめて、ひやあああ、と青ざめるの真上で二度目の舌打ちが聞こえた。
「避けるな」
「避けるわ! つーかこんなことしても無駄だって……!」
「一度や二度では分からないさ。外的ショックが記憶喪失の原因だった場合、大抵ラストで同等の刺激を受ける事により記憶を取り戻して」
「ラストって何だ、あんた本の読み過ぎだ!!」
「つべこべ言うな。動くなよ」
 再び振りかぶり、その上銀行での一件を思い出すほど威圧感たっぷりにオーラを纏うクロロに、の顔面は青を通り越して白くなった。
 背表紙が、こちらを向く。
「……ちょ、待っ、タイム、タイム! べ、別の方法を──ッ!!」




 ……色んな悪夢を見た水見式の日から、三日。
 同じ日に発覚したネコネコ宅急便つなぎ事件(結局前のはボロボロ過ぎて、まだこれを着てはいるが)をきっかけに、は職場を変えていた。
 前の居酒屋は日払い可能のとても良い所で、いきなり辞めるというのもかなり申し訳ないと思ったのだが……もう職務質問はごめんだ。
 そうして次の職場に選んだのは郊外のレストランだった。
 警察屋さんの目を恐れて市街からだいぶ離れた所を選んだので、レストランとは言っても高級感の無い、雰囲気もメニューも大衆的な所だ。

 午後三時。以前の職場より少し早い時間に店の制服に着替えたは、スープを煮込む良い香りが漂う調理場の隅で、一人ジャガイモの皮むきに専念していた。
 この店の名物はジャガイモのパンケーキ。それからどんな料理にもポテトサラダを添えるので、目の前のノルマは果てしない。しかし夕食時までに間に合わせるため、は黙々とナイフを持つ手を動かしていた。
 頭では、あの日のやり取りの続きを思い出しながら。




「……別の方法?」
 飛散する木片を浴びながら、クロロは眉を寄せた。
 わらにもすがる思いで盾にしたテーブルをあっけなく粉砕し、光速で迫ってきた背表紙は──額に当たる寸前でぴたりと止まっていた。
 ……いや、もしかするとニット帽は焦げているかもしれない。
 テーブルの脚だった棒きれを手に、放心状態のまま、はコクコクと頷いた。
「できれば、殴る、以外で……」

 本を持つ手が下ろされるのと同時に脱力し、木片だらけの床に座り込んだ。ああ、もうグラスどころか椅子もテーブルも、水見式フルセット無くなっちゃったよ……なんて寒々と部屋を見渡していると、気付いてしまった。「じゃあ……」 と生き生きした目で別の方法を考えているクロロに。
 ……もの凄く嫌な方法しか想像できないんですが。
「や、やっぱり、別の方法っていうより……」
 じろっと上から睨まれるも、どうにかしてストップをかけないわけにはいかなかった。
「い、いや、なんつーか痛いのとか怖いのとかはできればごめんだし」
 必死で言葉を連ねる。
「そ、それに、そもそもこんな事してまで思い出したくないっていうか──」

 おもいだしたくない。
 流れの中でつい口にした言葉だったが、それはあながち言うに任せたデタラメでもなく──少し、本心に引っかかっていた。

「……うん、俺、そんなに昔の──」
 殺し屋だった時の──
「──能力なんて、思い出したく、ないし」

 声のボリュームも落ちて、暗い方向へ沈みそうになって……自然、俯き加減になったを引き上げたのは、
「……今、一から能力を作りたい」
 真上から聞こえたクロロの声だった。
 いつの間にか本を消し、ベッドに腰を落とした彼は「そういう事か?」と訊いてきた。
 そう言われてもよく分からず、何も言えずにいるとクロロまでもが一緒に黙り込んでしまった。あちらは何か考え込んでいるようだが……置き時計だけが微かに音を鳴らす中、何となく気まずい時間をやり過ごしていると、いくらか経った頃ようやくクロロはこう切り出した。

「系統の種類は教えたな」
 何だかその口調が先生めいていて、思わず背筋を伸ばしながら頷く。
「強化系なら物の力を強くする。操作系は物を操る。他の系統ならそういった特徴があるが、特質系にはそれが無い。"他のどの系統にも当てはまらない性質"を、総称して特質と言うだけだ」
「……つまり、仲間はずれ?」
 卑下した言い方をしてみると、クロロは「いいや」と口端を上げた。
「個人の特殊な血統や、環境に著しく影響されて発現するのが特質系。その能力同士には共通点などなく、だからこそ一つ一つがレア……」
 咳払いをした後、「言いたい事は、だ」と仕切直した。本人的に話がズレたらしい。

「他の系統の、ざっくりした特徴を頼りに使える能力を一から作るとすれば、かなり時間も頭も必要とするし、そんな事がバカで間抜けで思考力の足りないお前にできるとは思わないし俺もそんな能力は見たくない」
「ば……ばかでまぬけ……しこうりょくのたりない……」
 あまりにもスムーズに出てきた暴言にショックを受けていると、そうして項垂れた頭のてっぺんに「聞け」 と足蹴りされた。
「だが自分に元から備わっている個性が強く影響する特質系なら……そして、水見式でここまではっきりと反応が出ているのなら、お前でも形に出来る可能性はあると思う」
 可能性、という言葉に惹かれて顔を上げた。
「思い出したくないっていうんなら、一週間好きにやってみろ」

 言い終わるや、ベッドの隅っこに積み重ねてある本の中から一冊を取り、ぽけっとしている弟子を残してくつろぐ体勢に入ってしまった。
 ……やってみろっていうのは……自分で能力を作れってことか。
 お前でも、という辺りにやっぱりバカにされてる感が拭えないが、自分でも頭が回るとは思えないし、能力を作れ、と言われても実際ピンと来ないので何も言い返せない。
 けれど、"可能性はある"、その肯定の言葉には、単純ながら意味もなく嬉しくなって──……ん?

「一週間って、何すか」
 妙に短い期限設定を訝しむと、ああそうそう、とクロロはわざとらしくすっとぼけた声を出した。
「さっきの電話、仲間からでな。次の仕事のめども立ったし、お前に付き合えるのはせいぜいあと一週間くらいだからそのつもりでな」
「は……? そ、そんないきなり! じゃあ、それ過ぎたら……」
「すぐにサヨナラはしないさ」
「な、何だ……」
 ホッとしたのも束の間、ぱらぱらとページをめくるのを止めてニヤリと笑うクロロと目が合ってしまった。
「実はお前の記憶を取り戻すのに、もう一つ思いついたアイディアがある。一週間で何も成果が得られない時はそれを試して、それでもダメならサヨナラだ」
 更に笑みは深くなる。
「勿論、方法は殴るよりももっとずっと荒療治だからそのつもりで」
 とどめに浮かべた好青年風の微笑みに、背筋がビシッと凍り付いた。

 や、やらなきゃ……
 同時に俄然そんなやる気が……何故か涙と共に出てきた。
 だがしかし、作れと言われても一体どうすれば?
 せめて糸口だけでもと、言うだけ言ってまた読書の体勢に入ろうとしているクロロを呼び止めた。

「師匠も、特質系だよな?」
「ああ」
「なら……」
 助言ください、という意図が伝わったのか、最後まで言う前に「そうだな……」とクロロは本をパタンと閉じて宙を仰いだ。
 良かった。師匠らしいことはまだしてくれるらしい。期待して待っていると、投げかけられたのは逆質問だった。

「お前の望みは何だ?」
「望み?」
 何の事かと、ただただ首を傾げる。だが、はなから答えは求められていなかったようだった。どこか中空を見つめながら、まるで独り言のようにクロロは言う。
「望み、願い、好きな事、手にしたい物……どんな能力でも少なからずそういう思考が反映されて形作られるものだが、特質系は特にそれが色濃く出る。だからこそ記憶を取り戻した方が早いと思ったんだが……まぁ一週間の内は言わないさ。とにかく、考えの足しにするんだな」




 望みっつってもな……

 何分くらい、三日前の事で頭をいっぱいにしていただろうか。ハッと今日に帰ってきたは慌てて手元を見た。しかし心配をよそにナイフを持つ自分の手は止まっておらず、ざるの中には皮のないジャガイモが着実に増えていた。
 ……さすが俺。
 というわけで安心して、考え事の続きに耽ることにした。

 自分の好きな事、望み、したい事。
 それを実現するにしても、水見式に出た結果を基に考えなければならない。
 水や葉っぱがグラスごと消失──すなわち、物を消す能力だ。

「……んー……」
 意識的にナイフを動かすのをやめて真剣に考えてみる。
 "何かを消す"。
 そこへ"望み"を加えると、"何かを消したい"。
 消したい物。無いと助かる物。自分にとって消えて欲しい物──
「うー……」
 どんなに脳みそをひっくり返して探してみても、そんな物は見つからなかった。
 逆に探せば探すほど、無いと困る物ばかり出てきてしまうのは生活水準が低いせいだろうか。ただ単に欲しい物なら山程ある。武器とか、携帯とか、お金とか、食べる物着る物、住む所……
 ……働こう。そういうのは働いて、手に入れよう。
 思い出したように真面目に皮むきを再開する。むきながら、ため息。さっきからこれを延々と繰り返している気がした。

 与えられた期限は、あと四日。
 一応クロロも、まだ師匠と呼べとしつこく強要してくるだけあって、部屋でうんうん呻っているとまれに横からそれらしく助言をしてくれるのだが……しかしそれは読書の片手間に、しかもを助けるどころか逆に悩みを大きくするような内容だった。

『せっかく身につける能力なんだから、当たり前だが使える物でなければならない。戦闘向きの能力の場合威力を求めがちだが、それで優劣が決まる程甘くないのが念能力だ。幅広い応用性を持つ単純な能力を考えるか、マイナス要素をカバーしてありあまる特殊性を求めるか。それだけで大きく戦闘スタイルは別れるがどちらにしてもあらゆる場面を想定し、その能力を最大限活用できるような方法も合わせて構成する必要がある。無論それでいて、自分の特性に合っている物だ』

 頭がパンクしたのは言うまでもない。
 というか、ゆうべ辺りに気付いた事だが、混乱させようとしてわざと色々並べ立てているのではないだろうか。今朝「まあ今日もせいぜい頑張れ」と言ったあの顔は、どうも日が過ぎるのを指折り数えているような気がしてならな──

くん」

 突然の呼びかけに背中に電気を走らせて振り向くと、立っていたのはこの店の店長だった。灰混じりの顎髭をざらざら触りながらこちらの手元をじいっと覗き込むその姿に、やべ、怒られるっ? と身構えたが、
くん……ジャガイモむくの、もの凄く早いね」
 まったくの取り越し苦労だったようだ。
「あ、はい、そりゃあ……」

 刃物は友達ですからっ!

 ……なんて言ったらクビになりそうだったので、「前にもやった事あるんで、このくらいは」と無難に濁しておいた。
 友達、とは言ってみたものの、自前の武器はまだ一つとして手元にないのがとてつもなく悲しいところなのだが。
 コインロッカーと、遠くの町に預けっきりの武器達を思い浮かべるとつい切なくなったが、店長の「じゃあ……」 という声に急いで意識を戻した。
「グラッセできる? ニンジンの付け合わせ。このくらいに切って角落とすの」
 切るだけなら、と伝えると、満足そうに大きく二、三度頷いた。
「そう、じゃあお願いしようかな。うん、これなら研修期間短くしても大丈夫そうだね……」
 機嫌良さそうにホールの方へ帰っていく姿に「やった」と小さくガッツポーズしていると、「あ、違う違う、褒めに来たんじゃなかった」と頭を掻きながら、店長はくるりと引き返してきた。

 脇に挟んでいたボードを持ち替え、それに刺していたボールペンの芯を出す。
「給料の振込先聞いてなかったよね、教えてくれる? あー、分からなかったら後でもいいんだけど」
「あ……俺面接ん時言いませんでしたっけ、手渡しでお願いしますって」
「え、そうだっけ」
「……持ってないんすよ、口座」
「あー、そういや言ってたような……ごめんごめん」
 んー、そっかぁと小さく呻り、何か書き付けながら店長はまた戻っていく。何だかいらぬ世話をかけたようで、褒めて貰ったこともプラマイゼロ、は申し訳ない思いでそれを見送った。
 また無いと困る物が増えてしまったようだ。
「銀行口座か……」
 一応、一年前に世話になった病院の先生には身元引受人になってもらっているのだが(本籍不明の身でバイトに雇って貰えているのもそのおかげだ)その証明書だけで口座は開設できるだろうか。

 口座、口座、銀行口座……
 そんなものより今は武器が欲しいよちくしょう……。

 念の修行に追われていてだいぶ紛れていたというのに、武器への想いが蘇ってきてしまったのは、下手にこうしてナイフなんか持ってしまったせいだった。
 刃物は友達!なんて浮かれてみても結局コイツは店の物。切ないこの想いが向かうのは、やはりロッカーと遠い町に置いてきたアイツらだ。

 口座なんか作ってそこに預ける金があるんなら、それを旅費にして迎えに行ってやりたい──いや、師匠の手前すぐには無理だ。それにケータイ買うために金は貯めなきゃならないし、やっぱ迎えには……
 考えても結局どうにもできない状況に、あーっ!と叫んでしまいたくなったのは仕事中なのでどうにか我慢した。ジャガイモの皮はザクッとちょっと厚めにむけてしまったが。
 くそう、だから言ってるじゃないか、預かり所に配達サービスは必要だって!
 お金なら、それこそ口座があればどこにいても引き出せるのに、なんで武器は無理なんだよう……!

 涙目でため息をついた。
 確か、同じような事を前にもどこかで考えたなと思ったら、銀行の前のベンチでだった。とんでもない一騒動が起こる前の銀行をぼんやり眺めながら、あの日、今と同じ事で傷心していた自分は力無くこう思った。
 とてもバカな事を、それでも切実にこう願ったのだ。

 お金みたいに、武器も──

「…………」
 ジャガイモを持つ手も、ナイフを握る手もいつの間にか止まっていた。
 今が仕事中だという事すら忘れてしまう程、は不意に生まれた閃きの中に引きずり込まれる。

 お金みたいに武器も、いつでもどこでも預けて引き出せればいいのに

 それは、紛れもなく自分の"望み"だった。




 ラストオーダーは十時。最後の客を帰し、店内清掃を終える頃には時計も真上を指そうとしていた。
 片づき、照明も落とされた調理場にはいつものつなぎに着替えたの姿だけがあり、その自分も後は事務室にいる店長に「おつかれしたー」と一言入れて帰宅するのみだった。
 だがそうはせず、暗がりに一人佇む。
 とても帰るまで、このはやる好奇心は抑えられそうになかった。

 きょろりと見渡すと、まずは仕事中使っていた小さなナイフが目に付いた。しかし、もし失敗してこの世から消滅してしまったら店の備品はちゃんとチェックしている店長への言い訳に困るし、何よりナイフが可哀想だ、と別の物にする事にした。
 手に取ったのは、さっき自分が綺麗に洗った細身のグラス。これなら割ってしまいましたスミマセンとでも言えばいい。
 調理台の上にコトンと置き、そして、両手をかざした。

 練をして、すぐにグラスの輪郭は薄れ始めた。水見式での反応と同じくまるで透明な霧に覆われていくように、秒を重ねるごとにグラスの姿は消えていき、やがて完全に、そこには何も無くなってしまう。
 ……無くなってしまったこのグラスは、一体どこへ消えてしまったのだろう。
 消す事ばかりが頭にあって、それは全く考えもしなかった事だった。
 完全にこの世から消えてしまったのだろうか。それとも、どこか別の場所へ?

 もし、後者なら。
 もしそのグラスを、またこの場所に取り出す事ができたら──?

 は練をしたまま、右手をゆっくりと近付けた。
 もしかするとこの右手も消えてしまうかもしれない。そんな可能性を考えると否が応でも心臓が大きく鳴る。
 緊張で乾いた唇を舐め、覚悟を決めて右手を伸ばす。

 ずっ、と何かに触れたような感覚と共に──調理場の薄闇の中に、指先が溶けた。




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念能力の話を始めると一話が長くなる…