43. 初仕事
真夜中の調理場から飛ぶように帰るなり、息を整えるのもそこそこに、は目に付いたコーヒーカップを手に取った。
両手をかざし、オーラを練り……さっき試した事を再現してみせる。
眠たげに雑誌のページをめくっていたクロロもやがて手を止め、ベッドから身を乗り出した。雑誌が床に落ちてページが分からなくなっても、気に留める様子はない。
彼のリクエストに応えてもう一度やってみせている間に"これでやってみたいこと"もおずおずと話してみると、それが良いとも悪いともクロロは言ってくれなかったが──何も言わず、食い入るように弟子の両手だけを見つめるその顔には、抑えきれずについ溢れてしまったような笑みが滲んでいた。
一週間の期限はいつしか無くなっていた。
そしてこの"能力"が形になったのは、更にもう一週間ほど過ぎた頃だった。
「…………──はっ!?」
ある日、全身に感じた妙な浮遊感に、は目を覚ました。
遠くで重低音が響いているそこは日の光に満ちた長い通路で、左奥から歩いてきた知らない中年男性が訝しげにこちらを見下ろし、目を逸らすように右奥へと去っていった。
同じように近付いてきた若い女性二人組が、今度は目を合わせるなりひそひそと話しながら引き返していく。
「…………」
寝起きなのを差し引いても、全くこの状況が理解できなかった。
昨日も、いつもと変わらない日常だったはずだ。
昼はずっと発の修行、夕方からはレストランでせっせと働き、日付が変わった頃に帰宅。部屋に入るなりそこに丸めてある毛布へと疲れ切った体をダイブさせて、そのまま一日を終えたはず──なのに。
一体どうして、こんな通路の途中で、見知らぬ人々の目に晒されているのか。
それからどうして……
俺、ぐるぐる巻きにされてんでしょう。
また記憶喪失グセかなぁなんて心配になったが、膝を抱えた状態でロープでぐるぐる固定されてしまっているこの状態を見る限り、自分一人でここへ来たのではないだろう。単に寝ている間に拉致られたに違いない。
……っていうかみんな見てないで助けて!!
さっきから次から次へと人が通っているのに、まるで不審者を見るような目をして足早に離れていく。世間の冷たさを感じた。「怪しくないです被害者です!」 いい加減そう叫んでみようかと思ったが──その時やっと、は隣に人の気配を感じ取った。
壁全面にガラスが張られた大きな窓を背に、備え付けの椅子で優雅に缶コーヒーを飲む男。
……まぁ、よく考えたら、この人しかいねーよな。
俺の身近で、拉致慣れてる人なんて。
こちらに気付いたクロロは、「おはよう」なんて爽やかな挨拶を口にしながら、持っていたプルトップでロープの一カ所を切り裂いた。
身体を縛っていた物はあっさり床にばらけ、代わりに解放感が身を包む。ずっと固定されていたせいか全身がぎしぎし痛むものの──それをさするよりも先に、は窓に貼り付いた。
落ち着かないこの独特な浮遊感。遠くの方で混じり合う低いエンジン音と高いモーター音。人が自由に行き交うこの明るい場所には心当たりがありすぎたのだ。
飛行船の窓の下には、ジオラマセットのような街並みが見渡す限りに広がっていた。
……す、既に離陸済み……。
思わずよろけてしまった足下には、ロープまみれのキャリーカートが転がっていた。カートに本来乗せて運ぶはずの鞄は見あたらず、頭に嫌な絵が浮かんできてしまった。
キャリーカートの台座にネコネコ宅急便の作業着を着ている男をぐるぐる括り付け、それをコロコロと引っ張りながら出発ゲートをくぐり抜けるとっても怪しい黒髪青年……
「……いや、普通呼び止められるだろ」
「二人分のチケットを示せば問題無かったよ」
心を読んだようなクロロの返し。しかし今知りたいのはそんな事ではなかった。
「し、師匠! これって一体──」
問いつめようとしたその時、絶妙なタイミングで流れてきたのは女性添乗員によるゆったりとしたアナウンスだった。
『ご乗船の皆様、本日はカラザ空港十時発、レゾン空港行き215便をご利用いただき、誠にありがとうございます。当飛行船は目的地、ベトジア公国へ向けて安全に航行しております。到着時刻は明晩二十一時を予定して──』
「……ベトジア公国?」
知らない国だった。
一年間放浪してきたとはいえ、世界の全てを回るにはそれはいくらなんでも短い期間だ。現に流星街という土地は名前すら知らず、今この飛行船が向かっているという国も同じだった。
どんな国なのか、そもそもどこにあるのか……いや、国名より何より大事な情報がアナウンスにあった事を思い出した。
「明日の夜、到着って……」
窓の外を見る限り、まだ日も高い。つまりあと丸一日以上飛行しなければならないほど、ベトジアという国はカラザ市より遠く離れた所にあるわけで……
そして当たり前だが、そこに到着するまで飛行船はUターンできない。
その事実に軽い眩暈を覚えながら、それでもこの横暴な師匠に告げてみた。
「……今日は休みだけど、俺、明日の夕方からはバイト入ってるんすけど……」
「それなら電話しておいた」
「え? そうなんすか? 何て手回しのいい……」
「ああ、今日限りで辞めるとな」
「そう辞めるって、それならまぁ安心──」
流れで頷きかけたのを、踏みとどまった。
「や、め、る……って、なんすか」
声を低くして尋ねたが、無駄だった。
自分の言いたい事だけ言ってあとは聞かぬフリ。そんな常套手段を取って缶コーヒーを飲み干した横暴かつ傍若無人な師匠は、椅子に空き缶を残して立ち上がった。
自分勝手に話を進めながら。
「レゾン国立記念館。知ってるか?」
ベトジア公国、首都レゾン。
空港に降り立った時は、まだ夜の九時だと言うのにすっかり宵闇に沈んでいた街並みに”首都”という言葉を疑ったものの、翌朝、宿のカーテンを開けるなり飛び込んできた景色は、のこの国に対する印象を一気に変えてしまった。
どの建物も白、白、白──それらの多くが屋根に独特の丸みを帯びた宗教色の強い物で、風化して少しくすんでいるその色合いは、歴史の古さを醸し出す。
まるで絵画のような風景を持つこの街で、クロロは"仕事"をするのだという。
仕事ってやっぱり……盗み、だよなぁ。
白い敷石が美しいレゾン国立記念公園のベンチで、は一人、複雑な心境で空を仰いでいた。
その盗みには、自分も同行させられるだろう。だからこそこうして連れてきたんだろうし、今思えば一週間という期限を引き延ばしたのも、あの日、真夜中の調理場から飛んで帰って"発"をしてみせた時に"仕事に使えそうな念能力"だと判断したからなんだと思う。
だからこそ、この能力が形になるまで付き合ってくれたわけで、それを思うとこれも一つの恩返しになるのかもしれないが……
どうにも心は、この空のようには晴れてくれなかった。
シャルが盗賊だと聞いた時には何も思わなかったのに。勿論今もそれは変わらないというのに、いざこうして自分が盗みの手伝いをするとなると罪悪感が消えないのは何故だろう。
白い公園をぐるりと囲む深緑の、その木立の合間にやはり白でできた建物が見える。
同じ敷地内にある、レゾン国立記念館。今クロロが下見に行っている"仕事場"だ。
目当ては一体何なのだろうか。銀行の時と同じく綺麗で高価な宝石だろうか、それとももっとお金になりそうな金品か、もしくは美術品──
ぼんやりと滑っていった思考に、気付いてストップをかける。
……なんか、積極的に考えてるみたいで、やだな。
白い記念館から目の眩むような森林に、それからまた空へと視線を移して、ため息を零した。
シャルに相談、してみようかなぁ。
そういえば、何だかんだでもうあれから四週間ほど経っている。ケータイこそまだ手に入れてはいないが、一度連絡しておいた方がいいかもしれない。
そう思って座り直し、つなぎの胸ポケットに手を入れた。が、そこに彼から貰ったアンケート用紙は無い。
あ……そっか、"あの中"か。
”そこ”から取り出そうとして、ポケットの中の手を目の前まで持ってきたが──やめた。息を吐いて、手を、足とベンチの間に挟みこむ。
ケータイ購入もまだで、しかも話す事が『ちょっと人に言われて悪い事するんだけど、やめた方がいいかなぁ』なんていう気の小さい相談事だなんて……
「……かっこわりぃよな」
「何がだ?」
突然青空を遮って現れたその人物に、思わず派手に声を上げてベンチからずり落ちてしまった。てっきりまだ記念館にいると思っていたクロロは「失礼な奴だな、人の顔を見るなり」と目の前で眉を動かす。
「し、師匠、下見早いっすね」
「見取り図の確認に行ってきただけだからな」
おみやげ、と言って隣に座ったクロロに渡されたのは紙カップだった。うねうねと盛られたバニラクリームの上に緑色のディップが乗り、ウエハースとスプーンがつき刺さっている。この国の名物デザートらしい。
自分も同じ物を手に持ち、「甘い」なんて身も蓋もない感想を無表情で漏らしながら口に運んでいるのを見ている内に、またため息が出そうになって、それを押し戻すようにクリームをすくったスプーンを口に突っ込んだ。
どうせ、いっくらグチグチ悩んだところでこの人に逆らえるわけねーんだもんな……あ、美味い。緑のは豆か。
「これいくらっすか。ん、小銭あったかな」
「四百ジェニーくらい別に……」
思いついたように、クロロは意地の悪そうな笑みをニヤリと浮かべた。
「今夜の手伝い料として取っておけ」
「安っ」
それを言うならせめて稼ぐはずだったバイト代くらいは出してもらいたい。……ところだったが、言っても無駄だと思うので大人しく泣き寝入ることにした。
バニラクリームごとスプーンをくわえて思う。多分、いきなり辞めるとか電話で言われて迷惑だっただろうなぁ店長さん。
勝手に辞めてごめんなさい、俺はめちゃくちゃ働きたかったんです。悪いのは全部この、銀行強盗より質の悪い傍若無人な泥棒で――
――これからその本業に付き合わされる俺はまったくの被害者なんです……
と、打ちひしがれるの周囲は、すっかり闇に包まれていた。
は今、太い枝の上にいる。その横には、クロロも。
レゾン国立記念館の閉館時刻は午後八時。今はそれをとっくに過ぎて日付も変わっており、深夜の記念館を取り囲む広い庭園に人の姿は見られなかった。静まり返ったその記念館の敷地を、更にぐるりと囲う落葉林の闇の中に、二人の招かれざる侵入者は潜んでいる。
その内の一人として不本意ながらこの場にいるは、しばらく着ていた宅急便の制服ではなく、以前愛用していたのと同じくすんだ緑のつなぎに身を包んでいた。
……悪いことをするのに、白は、いくらなんでも目立ちすぎだろうと。
そう思って宿の近くの店に飛んで行き、なけなしの金をはたいたのだ。
ポケットの配置も前のと似てるし、何よりやっぱりこの地味な色が落ち着く……けど、せっかく買ったわりには警備員とか見当たらないな。
一人や二人外を見回っててもよさそうなのに、と木々の間から広い庭、記念館の平たい屋根を眺めていると、その視界を遮るように横から手が伸びてきた。
「双眼鏡」
「……了解っす」
ああ、本格的に盗みの手伝いが始まるんだな……といよいよ覚悟を決めながら答えるも、は手に、双眼鏡など持ってはいなかった。首に提がっているわけでもなく、つなぎのポケットはどれも空。鞄の類も、枝の上には存在しない。
だが、クロロに言われて双眼鏡を準備してきているのは確かだった。見当たらないのは単に、見えない場所にしまってあるからだ。
取り出すには、念能力を発動させる必要があった。
右腕を、ぴんと張りつめる夜の空気へ伸ばす。オーラに包まれたその手は、何となく目の前の空間を手探りしたのち、不意に何かを捕捉したように動きを早めた。
爪の先端、指、手のひらと――伸ばした先から順に、の右手が消えていく。
みるみる内に手首から先がすっかり消えてなくなってしまったが、すぱっと切れたわけでもどろどろと溶けてしまったわけでもないので何の痛みもない。
目には見えない"異空間"の中に手を突っ込んだために、その手もまた見えなくなっているだけなのだ。
そう、二週間前、夜の調理場で試みた時と同じように。
「んーと……」
自分の目にも見えない異空間の中を片手で探るはやがて、ずるり、と黒い紐を引っ張り出した。続いて丸いレンズを備えた黒い物体が、端から見れば何もない空中から現れて、重力に引かれての手にぶらんと下がる。
「はい」
頼まれた双眼鏡を差し出すと、この作業をもう何度も見ているクロロは当然特に驚くこともなく受け取り、すぐに記念館の方角を覗いた。
「人、います?」
「一階で灯りが動いてるな」
「……警備員?」
「ああ、だが念能力者ではない」
「分かんの?」
「念使いはいない。そういう情報だ」
双眼鏡を覗いたまま答え、引き続き首を巡らせるクロロを、情報、とオウム返ししながらじぃっと見つめる。
情報とは、どうやら彼の仲間から得た物らしかった。直接尋ねた事はないが、たまに電話をしているのはその仲間が相手のようだ。
双眼鏡が下ろされた。
「手はずはさっき話した通りだ。一階に公開展示されてる物に用はない。直接二階に入る」
クロロは指示しながら、双眼鏡をに近い枝の上へ置いた。これも暗に『しまっておけ』という指示だ。
「了解」
無精して二つの命令に一緒に答えて、はまず、双眼鏡の方を片づけにかかった。
再び、オーラを両手に纏う。
「んー……」
アングルを切るように、両手の人差し指と親指で小さな窓を作る。覗き込んだそこには、ストラップを枝の下へだらりと垂らす双眼鏡。おっと、とその紐を上へとひとまとめにしてやってから、再び指の窓を作った。
双眼鏡を、、そしてクロロが見つめる。
それらの視線が交差する一点に、やがて小さな小さな、半透明の立方体が現れた。
「く……」
発現したばかりのこの能力をまだまだ使い慣れていないは、時に揺らぎかけるサイコロ大のそれを、歯を食いしばって維持しようとオーラを練る。
「冷静にやれ」
お師匠さまの助言を耳に、どうにか粘りきり立方体を安定させる事に成功したは、ここぞとばかりに窓をかたどっていた両手を左右に押し広げた。
つられるように、立方体も広がっていく。
それが双眼鏡をすっぽりと覆ったところで、は両腕を下ろして力を抜いた。
一秒、二秒。
双眼鏡を囲った四角形のオーラが、硬質な物へと変化していく。
三秒、四秒、五秒。
表面がどんどん白くにごり始め、中の双眼鏡が見えなくなって、そして──
完全に不透明になった六秒後。
真っ白な箱の形をほんの一瞬だけ整えた直後に、それは双眼鏡ごと枝の上から消え去ってしまった。
もとあった異空間に、再び収納されたのだ。
念によって作り出された特殊な異空間。それがクロロの見解だった。
そう言われても、そんな目に見えない物を自分が作り出しているという感覚がまるで持てず、水見式で消してしまったグラスや水差し一式をも取り出すことに成功してもなお「いくうかん、っていわれてもなぁ……」と半信半疑だった。が、念において師匠の言葉をくつがえすほどの知識もなかったし、それに――
仕組みなんてこの際どうでもいいことに気が付いた。この“念空間”はまさしく、自分の望みを叶えてくれるものだったのだから。
「やはり便利だな、その能力」
思いがけない師匠の言葉に、双眼鏡の収納を終えたは驚いた。
この能力について、クロロは良いとも悪いとも言わず、それどころかいつも発動が遅いだの収納時の目標設定が正確じゃないだのとダメだしばかりだったのに……
褒められた……!!
思わずにんまりして、もう何も乗っていない枝の上で身を乗り出した。
「だよな! 俺もすんげー気に入ってる! 何つったって……」
グッ、と満面の笑みでガッツポーズ。
「武器、いっっくらでも持ち運びたい放題!!」
一人悦に浸る武器コレクターの横で、クロロはぽそりと呟いた。
「……欲しいな」
「ん? 何?」
「いや。いくらでもと言っても、限界はある。その見極め、しておけと言ってあったな?」
勿論、と親指を立てる。
どれだけ入るか。クロロに言われて確かめたのはついゆうべの事だ。両手で生み出した半透明のサイコロを、何にもない空に向けて目一杯、これ以上無理だというところまで広げてみた、その時の感覚を思い出しながら、辺りの景色と比較してみる。
「……この記念館は、すっぽり入るんじゃねーかなぁ。あ、庭とか、この林も入れて。これくらいの木の高さだったら丸々いけると思うけど」
広さを確かめるように首を巡らせた後、クロロは微かに目を細める。
「……やはり、使える」
「だろー?」
何でも入れられて、いつでも引き出せるだだっ広い念空間。
クロロが持っている魚などのような戦闘向きな力ではないが、ポケットだらけの作業つなぎ一杯に装備してもまだ有り余る愛すべき武器達の持ち運びに涙を呑んできたにとって、これ以上"使える"能力は無かった。
まさに、いつか夢見た"武器銀行"。
好きなだけ持ち運べ、必要な時にいつでも引き出し放題なのだ。
コインロッカーに預けていた武器達も今はごっそり取り出して、シャルから貰ったケータイ番号の紙と一緒に大事に大事にその中にしまってある。
ああ、お前の言ってた通り、念って涙が出るほど素晴らしいよ!
と思わずその番号にかけて喜びを伝えたくなってしまうが、まあ、それは約束の一カ月まであと少し取っておこうとこらえている。
それまでにもっと修業して完成度を上げておこう。収納にはさっきのようにてこずっているし、出すのにも時間がかかっているし……まだまだクロロのダメ出しが欲しいかな、と熱意に溢れた顔つきで拳を包み込むを、いまだにクロロはじっと見つめていた。
やはり欲しい、なんて考えている事など露知らない弟子へ、彼は褒めの言葉を投げかける。
「本当にその能力は役に立つ。おかげで、シズクに連絡を取る必要もなくなったからな」
シズク……仲間?
連絡を取らない、ということは、いつもの電話の相手とは別人なのだろうか。何にしても、きっとどちらも盗賊の仲間なのだろう。
普段は彼らと仕事をするのであろう、盗賊としての師匠の姿を想像してみたは、ふと、思い浮かんだことを尋ねてみた。
「名前とか、あるんすか?」
「何がだ?」
「盗みって何人かでやるんだろ? そのグループの名前。ほら、あるじゃないっすか」
えーと、何てったっけ……と唯一耳にしたことのある盗賊団の名前を絞り出す。
「あ、そうそう。"幻影旅団"、みたいな、そういうの」
思い出してすっきりしたのは良かったが、尋ねたことへの返事が一向に返ってこず、それに気付いて振り返る。
一瞬、きょとんとしてしまった。
物凄く驚いているというか、不思議そうというか――とにかく、あまり見ないような顔をしたまま、クロロがじっとこちらを見ていたからだ。
……そんなに、変なことを訊いただろうか。
「あの……名前、無いんだったら、別に」
あんまり続く沈黙に、なんだか自分が悪かったような気がしてそう付け加えてみたが、それはすぐに「……無くは無いが」 とぼそりと否定されてしまった。
そしてまた、存在を主張し始める夜のとばり。
……無くは無いんなら、すぱっと言えばいいのに……。
気まずさにもそろそろ耐え難くなってきた頃、ハッと、ひらめくようには気が付いてしまった。
いつもは何に対しても辛口風味にあっさりばっさり切り捨てる人が、名前程度のことを口ごもる理由。そんなのは、およそ一つしか考えられなかった。
「……大丈夫っす」
理由を察してしまったが重々しく呼びかけると、クロロはぴくりと眉を動かした。その反応に、頷いて返す。
師匠、大丈夫っす、俺は……
「俺は、師匠んトコがどんなに無名で、どんなに変な名前でも、絶対笑ったりしねえから! さあ安心して打ち明け」
無言でしばかれた。
枝から落ちながら見たが、あれは確実に肘鉄だった。
……しまった、特に変な名前を期待する気持ちが、がっつり顔に出てしまったみたいだ。
呻きながら積もった落ち葉からおでこを引き剥がすに聞こえたのは、枝の上からの長い長い、もう呆れてしょうがないと代弁するような長いため息だった。
勿論それが、
……俺がその団長だと、知ってて名前を出したのかと一瞬でも深読みした自分が馬鹿らしい。
なんていう彼自身への呆れであることは分かるわけもなく、きっと俺に呆れてるんだろうなと消沈気味に落ち葉を払う。その内に――枝の上のため息はフッと形を変えて、心底可笑しそうに吐き出された。
「俺たちの名前か」
それは小さな着地音と共にすぐ傍から聞こえた。
「確かにその旅団ほど、有名な名ではないがな」
わずかに乱れたジャケットの襟を整えるクロロが、すっかりいつもの微笑を取り戻してそこに立っていた。まだ座り込んで帽子に落ち葉を乗せていたが、そのまま下の方から「……何ていうんすか?」と控えめに尋ねてみると、やっぱりすっかりいつもの余裕を取り戻した笑みで、クロロは質問の答えを口にした。
「"クモ"だ」
「……クモォ?」
「行くぞ」
空の雲か、虫の蜘蛛か。尋ねる前にクロロは落ち葉を踏みしめ、記念館の方向へと歩き出してしまった。
今のって盗賊グループの名前、だよな。雲、蜘蛛……どっちにしても変な名前……やっぱ、だから言うの嫌だったのかな。
思いつつ、置いていかれては困るのでも立ち上がり、落ち葉を一通りはらって後に続こうとする。
月も星もない空の下、の周囲には晴れようもない暗闇が這い寄っていた。
暗く沈んだ人工林、その向こうには整った庭園が広がり、電気の消えた平たい館を囲んでいる。クロロが確認したという警備員の懐中電灯もここからでは見ることはできない。
光源は、何ひとつない。
――ぞくっ、と背中に走った悪寒に従って、は素早く身をひるがえした。
手に汗を滲ませ、目を開く。しかし、そこには前方と同じ落葉樹林が広がるだけだった。目を凝らしてみても何もない。眉を寄せ、首を傾げても、もはやどうして後ろを振り返ったのかさえ分からなくなっていた。
物音も、人の気配がしたわけでもない。
まぁ……いっか、それより……
それより今は、厳しい師匠に遅れをとらない事の方が大事だと、は前に向きなおった。そして、雲か蜘蛛かも、今の妙な感じも忘れて全速力で走り出す。
暗い、暗い林の中を。
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まだできたてですが、とりあえず、こんな感じの念能力です。
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