44. 光再び




 ぱちん
 という音と共に突き刺さってきた眩しさに、思わず目を細めた。

 白んだ視界に、やがて浮かび上がってきたのは奥へと細長く伸びる部屋。そして一緒に伸びる三列のガラスケース。
 中には値の張りそうな宝飾品が並んでいるようだったが、いまいち価値が感じられなかった。それはケース自体に布がかかっていたり、その周りに段ボール箱が積みあがっていたりするせいで、そもそもこの部屋自体が何だか物置のような――
 などと、隅々まで見渡せることが大問題だと気付くのに、数秒かかってしまったことが悔やまれた。

「な、ななな……何やってんすか、師匠!」
 扉の脇の照明スイッチを急いでオフにするも、すぐにまたつけられてしまった。言うまでもなく、この記念館の一室に侵入するなり当たり前のように電気をつけたクロロにだ。
 スイッチ攻防は諦め、は部屋の外に顔を出した。通ってきた廊下に盛大に光が漏れていてひやっとしたが、二階フロアを支配する暗闇は総じて静かだ。
 ホッとして、そぉっと扉を閉めて、既にガラスケースの列の間を歩き始めている背中へと抗議する。
「見つかったらどうするんすか!」
 勿論声を殺して。
 しかし、ケースをこんこん小突いていたのをやめて振り返ったクロロは、そっちはそっちで勿論、声のボリュームを絞る気などないようだった。
「床の下にいる警備員に、二階の明かりが確認できるか?」

 それに、と指差したのは分厚いカーテン。それはこの部屋、一般公開していない品を入れておく保管室を日光から守る遮光カーテンで、たとえ庭に人がいたとしても明かりなんか見えやしないとのことらしい。
 それでもそわそわ落ち着かないに、クロロは呆れ顔をする。
「念も使えない警備員がそんなに怖いのか」
「いや、念とか関係ナシに……もっとコソコソしましょうよ、泥棒なんだから」
「じゃあその辺でコソコソ見張っておいてくれ」
 そう言うと、「え、その辺って」とあたふた戸惑うにはもう目もくれず、クロロは奥へと歩いていってしまった。そのまま段ボール箱とボロいつい立ての向こうに消えてから――

 三十分が経った。

 ……長ぇ。
 という独り言は、口から出てくる前にあくびに変わった。
 涙で滲んだ目をこすってもいまいち眠気は去らず、ぼんやりとしながら、傍に立てかけられているなかなか豪華な姿見に目をやった。
 波打つような彫刻が施された枠の中で、明々とついた電気の下、椅子にしているガラスケースの上で足をぷらぷらさせる自分が映っている。

 今ここに電話があったら、今度はホントにシャルに訊きたい。
 ……泥棒って、こんなんでいいと思う?

 一応始めの方は、クロロの言葉通り(ただの皮肉の気もするが)カーテンをほんの少し寄せて庭園を見張ってみたり、階下の物音に耳をすましたりしていたのだ。だが、何の異常も無く十五分も経てば、いい加減緊張感も薄れてきてしまったわけで。
 それからはもう、暇で暇で仕方がない。

 宿から勝手に持ってきた置き時計をもう一度確認する。三十五分経過。
 ため息をついて、眠気を飛ばすように「よっ」とケースから飛び降りた。もうその辺の保管物を見て暇を潰すのにも限界だった。
 ずっと座っていたガラスケースの中身はどれも宗教色に溢れた置物や貴金属で、珍しくはあったが、それ以上は興味をそそらない。積まれた段ボールを覗いてみたり、額縁に掛かった布をめくってみたりしてみたが、結局五分と持たなかった。
 自分にとってはこうでも……誰かさんにとっては宝の山のようだが。
 部屋の奥へ消えたまま、一向に呼び掛けにも答えないその誰かをさすがにちょっと急かそうと、つい立てを寄せて覗きこむ。
「師匠、まだっすか。まだなら俺も手伝い……」

 が、クロロの姿は無い。まぁ、こちら以上に物置状態だったので単に見えないだけだろうと不思議には思わなかった。
 それよりも。
 埋もれ気味の段ボール箱から覗く剣の柄に、目が釘付けになってしまった。
 この部屋で初めて湧き上がる興味。
 なんだよそういうのもあるんじゃん!
 あっという間にクロロのことなど頭から消え、ふらふら歩み寄り、ドキドキしながら柄を手に取る。……が、白く輝く宝石がお尻についたそれは異様に軽く、豪奢な鞘から抜こうとしても抜けない完全なニセモノだった。
 ……騙された。
 がっかりしたが、めげずにその段ボールを底まで漁ってみたのは、嗅覚が働いたのかもしれない。
 とても手に馴染む感触に出会い、引っ張り出したは――次の瞬間、ここがどこで、何をしている最中なのかも忘れて叫んでいた。

「え……こ、これ……えええええーっ!?」

 がつんっと側頭部に痛みが弾けたが、全く気にならなかった。それがクロロの放った念弾で「うるさい」と言いたいのだと頭の端っこで分かったが、そんなちっちゃな事は、今ふるふる震える両手で捧げ持っている物の前では、風に吹かれる塵に同じだった。
「し、しし信じられない、まさかお目にかかれるなんて……!」

 弟子の目の輝きっぷりに少し興味を示したらしく、ケースの影から現れたクロロが横から覗きこんできた。そしてひょいっと二本の指でつまみ上げる。
「ナイフ?」
「ああっ、持ち方気ぃつけてくださいよ……!」
 願いも空しく、刃を保護していたケースがはずされるなり宙を舞い、この部屋の電気が点けられた時以上に慌てふためく。運動神経をすべて使って何とかキャッチ、した後ろで、クロロはやはりぞんざいな扱いでじろじろ品定めをしていた。
「そんなに貴重ものなのか? まぁ変わった形はしているが」
「貴重なんてモンじゃないっすよ……この世にたった288本しか無いんすよ、ベン二ー=ドロンの生み出したナイフは!」
「誰だ」

 クロロのあまりの即答に、目も、口もぽかんと開けて呆れ返ってしまった。
「知らないんすか? ホントに? 今まで生きてて一回も聞いたことない?」
「お前に言われると異様に癇に障るな……鍛冶屋か」
「そうっすよ。ベンズナイフって言えば、アングラ武器フリーク界では超有名なんだから!」
「その業界は知らんが」
 以前が慣れないネットカフェで出会った世界は軽く切り捨てた後、しかしクロロの興味はまた少し戻ってきたようだった。
「ベンズナイフ……その名前はどこかで聞いたな。読んだ、か?」
 何の本だったかな、と考え出したのをチャンスと見て、はナイフを奪い返した。しかしケースははめず、そのまま独特な形の刃を隅々まで眺める。
 頭に銛のような刃をつけた、魚の骨に似た形、と言えば変てこなデザインだが、このナイフの性能を考えればの目には機能美にしか映らない。二十四時間褒め言葉を並べても足りないくらい、綺麗だった。

 何だろ、この胸がきゅーんってする感じ。
 ……恋? これが恋なの?
 人間一人殺すたびに一本作ってたっていう忌むべき殺人鬼の作品だけど、俺としても何だか複雑な感じはするけど……ああっ、でもこの美しさの前ではそんなコトありんこみたいなもんだ!
 すげぇきれい、ドキドキする……やっぱこれが恋なのかなぁ……!

「……そういう周りの視線を顧みない行動が、"マニア"と呼ばれる人種が倦厭される要因のひとつだな」
 頬ずりしたいが、でも肌を付けてしまうのは何だか恐れ多くて、寸前で我慢、超至近距離からうっとりじっとり恋する視線を送り続けていたところで、クロロが何か言ったような気がして顔を上げた。
 同時に、ほんの少しだけ冷えた頭が「あ」と疑問を浮かべる。
「でも……何でこんなトコにあるんだろ?」

 展示されてはいないと言えど、宗教的価値の高そうな品々の中で殺人鬼のナイフは、ちょっとジャンルが違いすぎるように思える。その疑問に、
「ああ、それは」
 手近な木箱の上に開いたまま置いてあった本を手に取り、ぱらぱらとめくるクロロが答えた。
 本は異様に汚れていて、背に"16"と書いてある。
「中期の密輸品なんだろう。ここレゾンを聖地とするハンニム教は辺りの地方一帯に影響力を持っていて、取り分け聖職者と祭事品の越境には甘かったようだから、当然、違う物も一緒に運ぼうとする人間が次から次へと湧いて出た」
 こういうのを使ったり、と神様を模したような像の足をひねると、いとも簡単に"ふた"が開いた。中の空洞は小さくてナイフは入らなさそうだが、それより小さくてヤバイものなんていくらでもありそうに思えた。
「黒歴史の産物だな。北の軍事国家の介入で一応の幕は降りたようだが、処分を免れた物がこうしてちらほら残っているようだ」
「詳しいっすね……」
「今読んでたからな」

 像を置き、再び古ぼけた"16巻"を遊ぶようにめくる姿に、の目は点になった。
「……あの」
「ん?」
「もしかして今まで、三十分ずっと、俺ほったらかして読書……?」
 問うと、今度はクロロの目が丸くなった。
「三十分も? ……いつの間に?」

 ……あんたが読書に熱中していた間にですよ!!

 こらえた。そう叫びたくなったのをかろうじてこらえた。言ってもさらっと流されて叫び損になるだけだろうから。
「うーん、確認のためだけのはずが、ページを開いてしまうとつい……」とぶつぶつ零しているこの人はいわゆる「本の虫」らしく、日常でもほとんどいつも何かの文字を目で追っているが……不法侵入しておいてのそれは、いくら盗賊でもやめておいた方がいいと思う。
 と、一人不満を噛み殺していると、突然大切に捧げ持っていたナイフの重みが消えた。驚き、行方を探すと――ちらりとその愛すべき柄が見えたと思えば、クロロのジャケットの内側へ姿を消してしまった。
「なら、さっさと盗って帰ろう。ほら、お前の仕事だ」
「え、ちょ、俺のベンズ――」
 親指で「あっち」と強く指示されては、師弟の立場上、ジャケットの中が気になりながらもそちらに従うしかなかった。
 え、何、人質? どうなっちゃうの、俺の心のコイビト?
 不安に思いつつ回り込んだガラスケースの先には、明らかに、物置状態の周囲とは区別して積み上げられている物があった。

 意外と言うべきか、やっぱりと言うべきか……

「……これ、っすか」
「ああ」
 後ろから来たクロロが"十六巻"を重ねると、それで一巻から二十二巻までの大全集がそろうこととなった。一つが百貨事典並みの装丁なので、"×22"の光景は圧巻だ。
 本が好きなのは残念ながらよく知っているが、それでも、どうにも……銀行からさらった宝石とはあまりに違いすぎて、これが”目当てのお宝”だとはなかなか理解しにくかった。
 しかもこんな……
 紐で縛って紙ゴミ収集の日に出したくなるほどボロくて、紙も焼けて、表紙なんて破れと色あせが酷くて題名もろくに読み取れない古本の山のために、わざわざ下見までして盗みに入るなんて。

「俺だったら、あげるって言われてもいらねーけどな……」
「何か言ったか?」
 低くて重い声に、肩がびくっと震えた。やはりこれが目当ての代物で、しかも本気度は相当高いらしい。
「い、いや……ほ、本のことはよく分かんねーけど、やっぱ、ベンズみたいにレア物だったりするのかなーなんて……」
「いいや」
「……へ」
 取り繕うとした愛想笑いは、予想外の返答にそのまま固まってしまった。
「この書籍自体は、この地方の少し大きな本屋にならどこでも置いているはずだ。無くても、出版社に問い合わせれば数日後には手に入る」
「は……。で、でも、本自体高かったり……」
「一冊、定価3500ジェ二ー」
 一瞬「本のくせに高っ」と思ったが、この前の宝石と比べれば、やはり盗みの対象としては石ころみたいなものだった。おまけにこんなぼろぼろの古本、とても定価での買い取りは難しそうだ。

「まぁ、ここにある物は1930年の初版で、貴重といえばそうだがな」
「初版……って、じゃあやっぱ高いんすか」
 訊きながら見たクロロは、心なしかその目を不機嫌そうに光らせた気がした。そういえばさっきから声の調子も低いままのような。
「……さっき言ったように重版されて読むこと自体はたやすいし、保存状態も良いとは言えない。それでも"初版"ということでいくらかの値段の上乗せはあるだろうが……」
 にわかに細まった瞳の中で、大きな黒目がじろりと寄せられる。その鋭さ。機嫌を損ねたように見えたのは気のせいではなかったらしい。
「さっきからお前は値段のことばかり訊ねるが、そこにしか着眼できないのか。初版の価値を数字で計れるとでも?」
 強まる語気に、たじろいだ。
「重版に比べて数が少ないとかそんな物理的な問題ではない。初版の価値は、作者と同じ時代に作られたというところにこそあると思わないか? 綴じられた紙の材質、表紙の色合い、印字されたインクの匂い、その印刷技術に至るまで、全てがその時代の空気を宿し、醸し出しているんだ」
「し、師匠……」
「活字を読むだけで満足するならネットやケータイ端末を使えばいい。手で、視覚で、嗅覚で、かの時代を感じ取ることこそ"本を読むこと"だと俺は」
「師匠ってば!」
 本の山を背に追い詰められたところで、やっとクロロは言葉をはたと止めてくれた。
 本の良さはさておき、それが好きなことだけはよく伝わってくるけど、でも……
「興味のない人にマシンガントークはどうかと……そういうの、マニアっぽくって嫌がられちゃいますよ」

「……お前に言われると、とてつもなく癇に障る」
 ひとしきりを睨んだあと、クロロは思いきり肩を上下させて息を吐いた。「とにかく」と後ろに下がり、ガラスケースに身を預ける。
「ここに積んだ本すべて念空間にしまえ。そのために連れてきたんだからな」

 へいへい分かりましたよ……と、本の山と距離を取り、収納する準備を始める。両手の枠の中に小さな四角を生み出した時、その集中に水を差すようにクロロが「そうそう」と話しかけてきた。
「さっきの双眼鏡」
 ……木の上で使って、片づけたやつ? それが何だ?
 わずらわしく思いながらも一生懸命四角形を安定させようとしていたが、次の瞬間、それは手の中からぷしゅっと消え去ってしまうことになった。
「切れた紐が残ってたぞ」
「えっ!?」
「それから枝も盛大にえぐれていた。念空間にさぞかし立派な表皮が収納されているだろうな」
「……う」

 それは、この念能力の難点で。
 "出す時"は手を突っ込んで引っ張り出すだけのお手軽仕様だが、"収納時"には色々気を付けなければならない事が多かった。
 その一つがこれ。具現化した立方体の、内側に入れた物は全て収納され、逆に外側にある物は何一つ収納されないというシビアな境界線の存在だ。
 これ見よがしに、クロロが双眼鏡の紐の切れ端をひらひら揺らす。収納する時にはみ出してしまった部分は、こうやって刀で斬ったようにすっぱり中の物と切り離されてしまうのだ。
 その反対に、内側に入ってしまっていた枝のように余計な物も一緒に収納してしまうことも……って、いや、枝はしょうがないじゃないか。双眼鏡を浮かせられるわけもないんだから。
 口を尖らせて床をコンコン蹴っていると、そこにひらりと双眼鏡紐の切れっ端が落ちてきた。いや、の顔を上げさせるためにわざと落とされたのだ。

「本を傷つけたりしたら……分かってるな?」
 目の笑ってない微笑みに、最上級の悪寒が背中を走り抜けた。




 本を再優先で保護するために、最悪、床ごと丸々収納して階下と吹き抜けにしてしまうことも覚悟したが、ぎりぎりで「そこらへんの段ボールを台にすればいいんじゃん……!」と気が付いて実行。床ではなくボール紙を剥いだだけで無事全二十二巻の収納を終え、はホッと胸を撫で下ろして部屋を後にした。
 侵入時にも通った真っ暗な廊下を、目を慣らしながら戻る。
 しかし、ぼんやり見えてきた赤い絨毯や凝った作りの照明器具よりも、には気になって気になって、心が焦がれて仕方のないことがあった。
 盗るモン盗って満足げに前を行く、師匠のジャケットの内側だ。

「あのー……」
 返事も返ってこなければ、歩くスピードも緩めない。それはきっと、こちらが何に視線を送っているか分かっているからだ。
「そのベンズナイフ……どうするんすか?」
「知り合いの武器マニアが良い品だと言うんでな、貰っていくことにした」
「貰うって、師匠が?」
「ああ」
「お、俺が見つけたんですけど……」
「何だ、欲しいのか」
 振り返りざまにニヤリと笑む。
「あんなに盗みに二の足を踏んでいたのに?」
 余裕綽々、何でもお見通しの師匠は更に見せつけるようにジャケットの片側を広げてみせた。
「欲しいなら、俺から盗んでみるか?」

 そんなの、二の足がどうこうの前に、物理的に無理じゃないか。

 唇を噛んで、でもしばらく考えたあと、ちょっと諦めたフリをして……「あ!」と思い出したように手を叩いた。
「俺、ジャケットの内側に物入れると、形が崩れるとかナントカ聞いたことあります! だからそれ、本と一緒に俺が、収納……」
 じぃっと見返してくる目力に負けて尻すぼみになったところを、軽く鼻で笑われ、すたすたと置いていかれてしまった。
 なんかもう、精神的にも無理だ。

 ……ごめん、ベンズナイフ。
 俺、キミにふさわしい男じゃなかったみたいだ……ああ、視界が涙でぼやける。

 数歩分距離を開けたままトボトボ後ろを付いて歩いていると、こっちのハートブレイクなどまったく察していないだろうクロロが軽い声で訊ねてきた。
「そういえば、その念能力、名前は?」
「……名前……別に、無いですけど」
「なら考えろ」
「要ります?」
「要る」
 即答されても、自分には、特に失恋気分な今の自分にとってはすごくどうでもいいことだった。何でもいいや……と、いつも使っている言葉を選んで口にした。
「じゃあ、"念空間"で……」
「却下」
「……なんで師匠が却下するんすか。俺のじゃんか」
「いいからちゃんと考えろ。……いや」
 コイツにこういうセンスは期待できないか。
 なんて失礼な事を言ってうーんと唸るクロロに、ちょっとムッとした。恋したナイフを奪われて、何か知らないけどバカにもされて、すげームカつくんですけど。
「そういう師匠のは、何て名前でしたっけ。言うからには自分で付けたんですよね? えっと、魚が何とかフィッシュで、花が、ん、何だったかな……」
「"盗賊の極意(スキルハンター)"」

 眉を寄せた。
 そんな能力名は聞いた覚えがない。花でも魚でもなければ、他に(死を身近に感じたおしおきの際に)見たいくつかの能力とも違うようで、スキルハンター? と唇だけ動かしながら首を傾げる。
 あ……でも、師匠はいつか、こう言ってたような気がする。
『いくつも能力を持つことができる、俺はそういう特質系能力者だ』って。じゃあ、そのスキルハンターっていうのがその――

 考えられたのは、そこまでだった。
 結論に至ったわけでも、頭の容量がパンクしたわけでもない。ただ、別のものに気を取られてしまったのだ。
 頭をいっぱいにして歩きながらも、通り過ぎようとした"それ"に自然と目が引っ張られたのはなぜだろうか。
 名前付けやクロロの能力のことなど、一瞬で忘れ去ってしまうほどに強くの注意を惹いたのは、なんてことのない、廊下と同じく暗闇に沈んでいる階段だった。

「……まぁ、名前が能力の優劣を決めるわけでもないが、お前のそれじゃ、あまりに味気ないからな」
 背を向けたままこちらに話し掛けているようだったが、の耳に入っていない以上、クロロのそれは独り言になってしまっていた。階段の方を見つめ、立ち止まっているとの距離も、クロロが気付かず歩き続けているのでどんどん広がっていく。
「思いつかないんなら俺が考えよう。……ああ、そうだ、このベンズナイフの礼としてな」
 大好きなものの名前も、そこに込められた嫌味も届いてはこない。
 記念館に三階は無く、階段は一階へ向かうものしか設置されていなかった。絨毯は敷かれておらず、むき出しのリノリウムが十数段下った先には無駄に広い踊り場が、そして。
 大きな鏡が、掛けられている。

「何がいいかな……ああ、前に銀行がどうとか言っていたが、あれは――」
 前を行く足音がようやく止まった頃には、言いしれぬ感覚と共に、鏡から目を離せなくなっていた。
 縦に長いそれは、いわゆる"姿見"だ。ただし、ここの内装にふさわしく豪奢な枠に彩られている。そう、さっきの物置部屋にも立てかけられていたような、波打つような彫刻の……

 ――ちょっと、違うな。あれは、もっとシンプルな――

 まぶたの上がちくっと痛んで、それがきっかけで我に返った。同時に自問が湧き上がる。
 "あれ"って、何だ?

「どうした」
「あ……いや、ちょっと……」
 少し先から呼び掛けられるも、おざなりにしか返せない。
 クロロの目は「行くぞ」と言っているが、つま先はいつの間にか、進行方向である侵入してきたテラスの方ではなく、階段の方に向いていた。
 意味も分からず速まる鼓動と共に、一段下りる。また一段……と、その間も自問は止まらなかった。

 鏡なんて、何にも珍しいことはない。
 姿見なんて、バイト先の更衣室やロッカーによくあるじゃないか。まったく同じ物をさっきだって見た。こんなに気にすることなんて、ない……だろ?

 答えは返ってこない。
 その代わり、一段下りて、鏡に近づく度に寒気にも似た嫌な感覚が足から背中、腕へと這い上がってくる。記念館に入る前、潜んでいた林の中で感じたような。その一瞬が過ぎてしまえば一体何を警戒したのかさえ分からなくなってしまうような、掴みどころのない違和感。
 理由の分からない、不安感。

「警備員に挨拶か?」
 ため息まじりの揶揄が上から聞こえ、気付けば踊り場まであと三段のところまで下りてきていた。足を止めると、床から少し離して掛けられている姿見にちょうど全身が映る格好になり、は息を呑む。
 薄暗い階段を背景に映り込む、ニット帽に作業つなぎという、まるっきりいつもの自分。しかし、鏡の中の彼は、妙に疲弊して見えた。

 ――ダメだ。
 ――ダメだ鏡は。間に合わなかったんだ、待機させてても――

 頭を振る。何がダメで、間に合わなかったんだ?
 待機って何だよ、意味が……
 分からない。よく考えられないほど、鏡の中の人物と同じように自分は疲弊し、汗をにじませていた。息が整わないのは、まぶたの辺りから徐々に広がり始めた鈍い頭痛のせいだろうか。
 表情を歪める、それでも、自分が映る姿見から目を離せない。

 鏡なんてそこらじゅうにある。今までだって、さっきの部屋でだって目にしても何も感じなかった。
 それなのに。
 どうしてこの踊り場の姿見にだけ、こうも引き付けられ、心を乱されるのか――

 ざわっ、と何かが揺れる音が耳を支配した。
 導かれるまま、上を、高い位置にある飾り窓を見上げる。カーテンも何も引かれていないガラスの向こうには、星一つ無い夜空と、それよりも更に濃いシルエットを刻む暗い木々が広がっていて、
 ――見たことのある景色だ。
 そう、思った。

 誰かにぶん殴られたような酷い頭痛と共に、記憶が流れ出す。
『――しっかりしろ、
 一つ目は、心配そうな顔をするシャルに起こされた、ハンター試験での出来事だった。彼の背後にはひたすらに真っ暗な森がある。同じような景色だ。
 こめかみに痛みが走る。
 鏡、そうだ、思い出した。あの時も鏡があったのだ。受験者に襲われ、その人物が目くらましに使った小さな鏡がまばゆく光って――

 二つ目。
 それは、覚えの無い風景だった。
 しかしそこにはやはり真っ暗な空と闇深い木々の群れが広がり、自分を取り囲んでいるように思えた。
 遠くに見えるのは、何の飾りも無い簡素な姿見。
 近づくにつれ、鏡は自分の全身を映し出し、そして突然――光った。

「いっ、つぅ……」
 視線を窓から鏡に戻したの頭痛は、もはや一時も止むことのないものになっていた。たまらず手をやり、ニット帽を押し上げる。
 湿った髪をぎゅっと掴み、歯を食いしばって耐える。そんな辛そうな自分が鏡にも映っている。
 映っている……だけだった。
 少しホッとする。
 暗い空と森、それから鏡がここには揃っていて、きっとそれが頭痛を引き起こしているんだろうと何となく感じた。
 だけど、この鏡は光ったりなんかしない。
 そう思うと、詳しい理由は分からずとも安堵できたのだ。

 ダメだ、鏡は。間に合わなかったんだ、待機していても。

 その言葉の意味は未だ分かりかねるものの、鏡がダメだというのは同感だった。
 頭が痛い、気分が悪い。
 もう、見ていたくない。
 さすがに痺れをきらしたのか階段を下りてくる足音が聞こえて、それをきっかけにねじ切れそうなほど強く掴んでいた髪から手を離した。
 すんません、何でもないっす。
 姿見にだんだん映り込んできたクロロにそう言おうとしたが、うまく動いてくれない口からは息しか漏れてこなかった。
 しょうがなく、鏡越しに片手を上げて同じ意味を伝える。その腕も異様に重く感じて――そんな、全身にのしかかるダルさのせいだったのだろうか。
 踊り場の壁にふらりと現れた、丸い光に気づかなかったのは。

 とにかく、帰ろう……ここから離れよう。

 ニット帽をかぶり直し、そして、最後に姿見を一瞥する。
「……――っ!」
 鏡がまばゆく瞬いたのは、丁度その瞬間だった。

 誰かが叫ぶ声が、ホワイトアウトした視界の中でみるみる遠くなっていく。地面が、足の裏から離れたような気がした。




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一話一話が長くなっていることに反省。