45. 暗い森




 階下からゆらりと登ってきた丸い光は、懐中電灯の明かりらしかった。
 辺りを窺うように壁を移動したのち、踊り場の大きな姿見にさしかかったそれは盛大に光をまき散らした。暗闇にすっかり順応していた視界が白む。
 わずかに目を細めたクロロの数段下で――弟子の体がぐらりと傾いだ。

 反射的に手を伸ばそうとしたが、
「誰だ! そこで何を……!」
 懐中電灯の持ち主が叫び、階段を駆け上がってきたのを認めて中断した。代わりにその手をジャケットの内側に差し込み、階段の中腹から飛び降りる。
 鞘を残して引き抜いたのは弟子から横取りしたベンズナイフ。それを着地と同時に横へ薙げば、びくりと痙攣したのち、警備員は顎下から血を噴き出して踊り場に崩れた。
 彼の手から離れた懐中電灯は、床に跳ねて、持ち主から飛び散った血をでたらめに照らしながら階下へと落ちていく。それを見送った後、クロロはナイフをしまって後ろを振り返った。

 どうやら意識はあるようだ。
 踊り場に転落した時も自力で手をついたらしいが、その様子を見る限り"無事"とは言えなさそうだった。息は異様に荒く、頭が酷く痛むのか、そこを押さえる両手には青筋が。この暗さでは確認できないものの、顔色も良いとは思えない。
 膝をついて軽く呼びかけてみるも、途切れ途切れに何か呟いている彼には届いているのかいないのか。
 諦めて、クロロは一連の出来事を静かに映し続けているものを見上げた。

 ふと気付けば階段下を見つめて立ちどまり、ふらふらと歩み寄っていった。階段の途中で足を止めた彼が、時折小さく呻いて頭に手をやり、それでも見つめ続けていたのは――
 鏡。
 波打つような曲線を重ねた、この国16世紀代を象徴するガロスト細工を施したこの姿見は……ただの鏡だ。
 本物の鏡と"具現化した鏡"を目で見分けるのは難しい。とはいえ、それで何かを仕掛ける時は少なからず変化がある。
 この鏡にも周囲にも、そんな気配はなかったはずだが……

 階下がにわかに騒がしくなった。警備員が集まってくるのも時間の問題のようだ。
 ――あとでゆっくり考えよう。今はまず……
 自力で立てそうにもないを肩に担ぎ上げ、クロロは踊り場をあとにした。
 廊下、テラスを足早に通り過ぎ、柵を踏み越え林へ跳ぶ。
 頑丈な枝の上で止まり、記念館のあちこちに明かりが灯っていくのを認めていると、肩の荷物が身じろいだ。

「……か……え……」

 降ろせるかと思いきや、それきり、痛がる声すら上げなくなってしまった。
 やれやれ、と少し重くなった身体を担ぎ直す。まぁ、歴史書二十二冊を抱えることを思えば随分マシだ。
 けたたましい警報器の音を背に、クロロは枝を蹴り、闇夜へと姿を溶け込ませた。




 * * *




 暗い空の下に、暗い地面が広がっていた。
 月も無い、星も無い。人工的な明かりも届かない。
 そんな闇の中に立ち並ぶ木々の間を、自分は歩いている。


 ――ダルい。

 全身を、けだるさが包んでいた。装備している武器たちの重さは心地よいからいいとして、体そのものが鉛のように重いのはあまり気持ちのいいものではない。

 仕事は……これで終わり、だったかな……

 頭の中で指折り数えて、安堵する。
 この十日、飛行船で移動しては標的を捜して始末し、また移動しては始末の繰り返し。どれも標的は一般人とはいえ、こうして数を詰め込まれるとなかなか辛く、渡された資料を一枚一枚潰していく作業は体と心両方に疲労を蓄積させていた。
 暗い人工林を進む、この足を動かすのも正直億劫。
 だが、あとは帰るだけだ。

「…………」
 "仕事が終わって、帰るだけ"
 しかし帰る前にしておかなければならないことを思い出した。疲れと面倒臭さに迷ったが、帰途につきがてら、適当に片づけておくことにした。
 胸ポケットの一番奥から丸っこい感触を探りあてる。六芒星の描かれた小さな楕円は、それとは見えないが無線機能を備えていた。ボタンを一つ押し、歩きながら待つ。
 三歩と進まない内に応答があった。

『仕事、終わったの』
 抑揚の無い質問に、ちらり、と肩越しに後ろを確認する。
 木々の間に見える立派なお屋敷は、明かりも消え、人っこ一人いないように静まり返っていた。少なくとも生きている人間はいない。
 その旨を「……ああ」と短くまとめて伝えたが、当然、伝わりきらなかったようだ。
『どの仕事が終わったの。オレ、それから親父も言っただろ、仕事一つ終えるたび逐一連絡入れろって。まさか十日も経って一つ目ってことないよね? 今どの国に』
 途中から無線機を遠ざけた。煩わしいからというより、単にあくびをするためだ。
 説教めいた声を遠くに聞きながら、ぼんやりと林を行く……と、不意に、この景色に似つかわしくないものが目についた。

 屋敷を出てしばらく経つので目は慣れており、遠く――この敷地を外界から遮断する、高い塀の辺りにある"それ"が何かはすぐに分かった。
 鏡だ。
 縦に細長い姿見が、黒い木々を映して周囲に溶け込もうとしている。妙な光景ではあったが、違和感はすぐに薄れた。門扉に近いそこにはプレハブの管理小屋があって、その裏手に積まれた色々ながらくたと共に、鏡は立てられかけていたからだ。

『聞いてる? 返事ぐらいしてほしいんだけど』
「……ん」
 言われて、視線を手前に戻す。
『お前と通信するの疲れるんだよね。こっちが喋らないと成り立たないから。ま、通信に限ったことじゃないけど』
 戻したものの、相手の文句よりどうも鏡のことが気になった。それがちょうど進行方向にあり、まっすぐこちらを向いているからだろうか。
 まるで、来るのを待っているかのように。
「…………」
 警戒は、しすぎるに越したことはない。
 そうすることにした。疲れているが、そして杞憂に終わるだろうが、念のためだ。
 膝のポケットから抜き出したのは二本の投てきナイフ。
 目の高さまで放り投げられたそれは空中で停止し、くるりと向きを変え、それぞれ両肩辺りの上空に落ち着いた。

『で、それが最後の仕事でいいんだね?』
 ナイフ二人を連れて、時折彼らをくるくる回したりしながら落ち葉を踏んでいく。徐々に鏡に自分の姿が映り込んでいくのを眺めていると、
『ね?』
 何が"ね?"なのか、さっぱり聞き逃していた。聞き直すのも面倒だったので「……ああ」と適当に返すと、見透かすような間の後、無線機からノイズ混じりのため息が響いた。
『なら、すぐ戻っておいで。十日も連絡がないなんてってずっと母さんうるさいから』

 ……言われなくとも、と頭の中で返事をして通信を切ろうとしたが、つと指を止めた。
「……いや」
『何。用事なんてお前には無いだろ』
 ……あった。
 銀髪の大半を覆い隠すほど真深にかぶったニット帽。背中には長刀を背負い、左右のベルト通しには短剣を吊り下げ、ナイフ二本を宙に待機させて、片側に重心をかけてだらりと佇む。
 シンプルな木枠にはまった鏡の真正面まで来ると、そんないつもと変わらない自分がそこにいた。鏡の中の自分は無線機を口に当て直し、呟くように言った。
「……お土産」

『…………お前からそんな世俗的な言葉が出るとは思わなかった』
 珍しく驚いた声だったが、『まぁ、土産でも何でもいいけど、とにかく……』と、すぐにいつもの調子に戻る。そしてこの言葉を最後に、通信は向こうから切れた。
『早く帰っておいで』

 闇夜に静けさが戻ったところで、鏡の中の自分へと意識を移した。
 指でつまんだ無線機をゆらゆらさせたり転がしたり、それと同調させるように二本のナイフも踊らせながらしばし鏡と相対していたが、何も変化は無い。
 結局、杞憂だったようだ。
 ……それなら帰ろう。お土産、買って。
 鏡の向こうにそびえる、高い塀を見やる。
 ……でも、どこで売っているか分からないな……まぁ、いいか。靴なら、何でも……

 その瞬間、念独特の圧力が肌に触れた。

 焦点を戻した時には既に、姿見はすさまじいオーラに包まれていた。反応の遅れた自分の姿が、まばゆい光によって鏡面からかき消える。鏡自身が光を放ったのだ。
 足や指先に命令が伝わるより、待機させていた二本のナイフが光に抗うような速さで飛び出した。
 それは真っ白な世界に消え、遠くで何かが割れる音がした瞬間――

『いってらっしゃい』

 誰かの笑顔と一緒に、自分の思考も砕け散った。




* * *




 深い海の底から、一気に水面に引っ張り出されたような感覚に大きくあえいだ。

 そこは、海でも暗い林でもなく、部屋。
 白を基調としていながらも、備品のちょっとすすけたところに安っぽさが垣間見れるその室内は、レゾンに着いた昨夜から泊まっている宿だった。帰ってきたという記憶がない、つまりまた意識を失っていたことを痛感させられながら荒く呼吸を繰り返していると、誰かが近付いてくる気配がした。
「ししょ……」
 出した声は酷い鼻声だった。そういえば、何だか息苦しい。
 鼻をすすりながら横たわっていた体を起こし、はあらためて、息を整え頭を下げた。
「すみません、師匠が運んでくれたんすね……っと」
 飛んできた物を受け止めると、ティッシュ箱だった。
 鼻かめってことか? と、箱を膝に置きながら俯くと――
 目からぽたんと水滴が落ちた。
「……うおっ!?」
 慌てて頬に手をやるがそこは乾いていて、ぐっしょり濡れていたのはこめかみや耳にまとわりつく髪の毛だった。そっちを袖でごしごし拭っている内に、なぜクロロがティッシュを箱ごと投げたのかが分かった。

 泣きながら寝てた? 寝ながら泣いてた?
 どっちにしろ……めっちゃ恥ずかしいんですけど。

 真っ赤にした鼻をぐずぐず鳴らしていると、
「……さて」
 すぐ隣に温度を感じた。
「お前が寝ている間に、何から訊こうか考えていたわけだが……」
 クロロが肘置きに腰かけたことで、自分が座っているのが昨夜もベッド代わりにしたソファだと今さら気が付いた。少し高い位置から、クロロがこちらの泣き顔を見下ろして穏やかに言う。
「お前は何を話したい?」
 きょとんとして見上げれば、吸い込まれるような黒い瞳。
「俺に、何を聞いてほしい?」

「……っ」
 不覚にも心臓が波打って、また涙が出そうになった。

 今見た夢のことは、すべて覚えていた。
 いや、"覚えている"という言い方は、違うのかもしれない。例えばあのいってらっしゃいと見送ってくれる少年の夢は、目の前に現れた映像をただ観るだけだが……今回の夢は違う。
 全身に装備した武器の重さも、見ていないはずのその種類さえ頭に残っていた。仕事のせいだという疲れや眠気、踏みしめた地面の暗さ、ひんやりとした林の中に、わずかに漂っていた血の匂いまでも、あの場にあったものならすべてはっきりと思い出せる。

 帰りたい。
 早く家へ、あの少年のところへ、ただいまと言って帰りたい。
 そう強く願ったこともありありと蘇る。胸いっぱいに広がりすぎて、苦しいくらいに締め付ける。
 ……苦しい。
 目の辺りに熱さを感じながら、長く、深く息を吐き出した。

 何で分かるんすか、俺が、誰かに聞いてもらいたいって思ってること。

 ティッシュ箱は使わないままソファの下に置いた。また泣くのは女々しすぎるので我慢して、は見た夢の話――初めて戻った記憶、なのかもしれない話をぽつぽつとクロロに話し始めた。



 夢の話をして、それに前にも真っ暗な森と鏡のあるシチュエーションで気を失ったことがある、と大まかに付け加える頃には、鼻声もすっかり治っていた。
 何となく、心の方もすっきりしていた。
 それはこちらが話したことを受けて、クロロが静かに思考しているのをこうして見上げているからだろうか。
 抱えていることを吐き出すと心はすごく楽になる。それを真剣に受け止めてくれる誰かの存在は、これ以上ないくらい暖かい。
 初めてできた友達に教えてもらったことだ。

 実は優しかったりすんだな、この人。
 俺のことだって、宿まで運んできてくれたんだし……
 …………。

 それは、盗んだ本のためかもな、と苦笑いしつつ、まだ考え中なクロロを残して洗面台へと向かった。顔に水を浴びせ、タオルで拭いて視線を上げると曇った鏡に映る自分と目が合った。何となく目を逸らし……ふと夢の中で自分がやったあることを思い出した。
「一応確認しておくが」
 声がしたので、戻りながら、念空間の中に人差し指を突っ込む。
 輪っかを引っ掛け、引きずり出したのは投げナイフ。それをひゅんひゅん回しながらソファに再び落ち着いたは、ひょいっと目の高さまで放り投げた。
「病院で目を覚ました時、持っていた武器の種類は?」

「ん……」
 当たり前のようにカーペットに落下したナイフを拾い上げる。また指で回しながら、かつて病院の先生に「君のものだよ」と渡された武器を思い返す。
 返事に時間はかからなかった。夢の内容をクロロに話している時から、気になって考えていたことだからだ。
「……同じっす。夢で見た……光る鏡に襲われた時と」

 だから、多分、俺が記憶を失くした原因は……

 そこまでは口にしなかったが、同じことを考えているからこそクロロもこんな質問をしたんだろう。
 持ち物だけでは絶対と言いきれないかもしれないが、しかし、やはり考えやすいのは――
 なぁ、そうだよな?
 手の中の投げナイフに同意を求めてみた。こいつはまさに、元々装備していた武器なのだ。そう、夢の中で妙な使い方をしていたのと同じ型の物。
 また、ぽおんと宙に投げてみた。が、重力という常識に従って床に落下。
「……さっきから何してる」
 五、六回目でさすがにそう尋ねられた。大事な武器を受け止めもせず、何度も繰り返し放り投げる様子は変に映ったらしい。
「いや……夢で俺、これを宙に浮かせてくるくるダンスを……させてたんだけどなぁ」

 生き物のように動くナイフがとても可愛らしくて、できたらいいなと思ったのだが。うーんと困り顔でナイフを見つめていると、「ナイフを自在に、か」 クロロがこちらに向き直った。
「それは操作系の領域だな。操作方法や対象にもよるが、物体操作には総じて高い集中と技術の緻密さが要求される。練習するのは勝手だが、ムラの多いお前に向いてるとは思わ――」
 そこから先は聞こえてこなかった。口元に手をやり何か考えている風のクロロを訝しんで見上げるも、『思わ』の後は否定的な語句しか続かない気がした。ムッとしてナイフを拾う。

 俺がやってたことなんだから、やれないわけないさっ。
 意気込み、ナイフの柄を握りしめる。
 念なんだから、と思いつき、自分のオーラを強めてみた。かさが増し、刃の付け根までオーラが被さったのを見て、どうせなら刃先まで覆ってしまおうと試みる。勿論そこまでかさを増すのは大変なので、ナイフを握る右手だけに集中して、刃先へ、オーラを伸ばしていく。
「……お」
 ことのほか、それが美しくて眉を上げた。
 手を伝い、ナイフ全体を覆ったオーラは体にたゆたっている時よりも鋭く、滑らかで、それ自体が鋭利な刃物のように見えた。"手の延長"とよく表現されるような武器との一体感もより強く感じられ、それはまっすぐナイフへの愛しさに変換される。

 いいかも……。そういや、トランプも武器になるってシャル言ってたけど、こういうことなのかなぁ。
 それが"周"と呼ばれるものだとは知らなかったが、手ごたえを感じてナイフを握る手を上向かせた。軽く反動をつけて、まっすぐ上へと放り投げる。

 浮け、浮け!

 願いむなしく一秒後、ナイフは自由落下ののち、豆腐でも切り裂くようにさくっとカーペットに刺さった。
 切れ味だけは、まぁ、良くなったようだが。




  back  
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ほんの少し記憶が戻りましたが、通信相手のことも、夢の少年のことも思い出さず。