51.避ける
無かった。
セダンであのお屋敷に向かったが、一晩中探しても紙切れなど落ちておらず、航空会社に連絡しても『そんなゴミかす大事にとってるわけねーだろボケ』 という返答を丁寧な言葉でもらっただけだった。
シャルの電話番号が分からない。
ついでにヒソカと、残る唯一の共通の知り合い、マチの連絡先も分からないので訊くあてもない。
流星街という地名を思い出し、そこに行けば会えるかも……! と一瞬目を輝かせたが、師匠にいかにそこが無法地帯で、交通手段も無く、簡単に行ける場所ではないことをこんこんと説明され、断念せざるを得なかった。
そもそも大陸が違うらしく、その旅費さえ……
「情報が欲しくて受験したんだろう?」
また両手両膝を床について世界の終わりを感じていたウルズに、普通ならそれを見下ろすだけのクロロが珍しくしゃがんで語りかけてきた。
「ハンターライセンスがあれば、個人の電話番号なんてどうとでもなるんじゃないか?」
「……そうなの?」
「少なくとも金には困らないし行動範囲も出来ることも広がる。それらによって得られる情報量は膨大。友人の行方の一つや二つ、あっという間だろう」
「そ、そんなことまで……ライセンスすごい!」
「そのためにもまずは試験を」
「頑張るっす!」
「念の修業も」
「めちゃくちゃやりますっ!」
……と、何だか乗せられた気がしないでもないながら、しかし確実にハンター試験と念修業への意気込みは大きくなって――
そんな日の夜、夢を見た。
まだ真っ暗な三時半、目が覚めたソファで、ずれた毛布を引き寄せることも忘れたまましばらく天井を眺めていた。
最近、見なくなってたのに。
目を閉じ、ゆるく、息を吐く。
吐ききったところで、反動をつけて起き上がった。
洗面所で軽く顔を洗い、タオルに手を伸ばす前に、ふと目の前の鏡と向かい合う。
にこっ、と笑うと、寸分違わず鏡の中の自分も明るく笑った。
そこにいたのは、あの屋敷で垣間見た昔の自分などではなく、シャルと友達になって、クロロのおかげで念能力を覚えて、ハンター試験を目指している……なくしたくない、今の自分だった。
記憶が戻るごとにメモリーボックスの容量は減っていく。
それはまるで、念能力だけでなく、自分そのものさえ昔のあいつに侵食されて目減りしていくように思えた。この不安までは師匠にも打ち明けなかったが、正直、怖い。
今のままがいい。
……だから。
無理やり作っていた笑顔を消して、タオルに顔を埋める。
その脳裏に過ぎるのは、さっき見た夢。
いってらっしゃいと送り出してくれた、弟かもしれない男の子。
だから、ごめん。
俺、きみのこと……思い出したくない。
試験の後から、今まで。まったく見なくなっていたのにこのタイミングで現れたのは、“もう過去に手を伸ばさない”なんて決めたことを責めているのだろうか。
『仕事? つまんねーの』
自分になついてくれていたように思える少年に、罪悪感は感じる。そして同時に後ろ髪も引かれる――が、
「ごめん」
唇を小さく動かして、断ち切った。
人差し指と、中指。その二本だけを見えない空間に突っ込む。両指の根本で何か挟んだと感じたら、すぐさま手首のスナップを利かせて引っ張り出す。挟んだ柄から、切っ先まで、すべてが空気に触れた瞬間には既に投てきナイフは指を離れていた。
カッ、と小気味良い音が二十メートルほど離れた木の幹に響く。
狙いこそばっちりど真ん中だったが……
ちょっと遅い。
引き出して投げる、引き出して投げる、その動作を爽やかな日差しの中で延々と繰り返していた。慣れてきたら薬指も追加して、二本同時に引き出して投げる。
その動きが、まるで元から手に持っているナイフを投げるのと大差ないスピードになってきた頃、両手いっぺんに合わせて六本のナイフを投げたのを最後にウルズは息をつき、幹へと歩いていった。在庫切れだ。
命中しているものは抜き、それらに当たり跳ね返ってしまったものは拾い上げ、用意してあった発泡スチロールにはみ出さないように乗せる。
そして、軽く手をかざす。アングルを切ったりはせず、あくまで軽くだ。
台座の側面ぴったりの大きさを心がけながら、しかしできるだけ速く箱のサイズを調整――する後ろから、誰かが近づいてきた。
ソシオタウンのはずれ、山肌の雑木林にやってくる人物など、自分の師しかいないのだが。
「随分と慣れたようだな」
「えっへっへ。そうっすか?」
ぴったりサイズを決定し終えて、この大きさなら約十五秒と目される待ち時間に入る。
「武器は全部箱へ?」
「えーと」 不透明になった箱が中身ごと消失するのを見届ける。「うん、これで全部かな」
「そうか」
その相槌の裏に『そうか、それはちょうどいい』 という心の声が聞こえた気がしたのは、生活を共にしている弟子としての勘だったのかもしれない。その真偽を確かめるために振り向くと――困ったことに、やはりクロロはそういう顔をしていた。
「なら今から、メモリーボックスの使用を禁止する」
「…………え、意味がよく」
「発の訓練はとりあえず十分だ。それよりも、お前の念には他に目に余る部分が山ほどある。それを叩き直す」
どこら辺に山ほどあるのかよく分からず、はぁ、と覇気の無い返事をする。
「でも、別に使用禁止にしなくても……」
「武器は邪魔だ」
「……えっ、だ、出すのもダメって、こと?」
「そうだ」
「ナイフも? 銃も? 鞭とか棍も? 長刀とか小太刀とか今月特集されててアツイんすけど、あっ、金属バットは武器に入り」
「全部だ」
ええー……。
「で、でも生活用品とか車も、あ、師匠の本もいくつか入ったまんま」
「構わん」
えええー……。
クロロの本気度を悟り、膝から崩れ落ちそうになった。それには耐えたが、両手がつなぎ中のポケットをまさぐるのは無意識ゆえに止めようもなかった。
本当に全部メモリーボックスの中だと分かると、急に落ち着かなくなってくる。
そわそわする。
ナイフ投げたい。
しばらくとはどのくらいなのか聞かずにはいられなかったが、それはクロロのマイペースさに阻まれてしまった。
「じゃあまずは、今から二十四時間、俺の攻撃を避け続けること」
「え、何、避け……?」
「スタート」
言うや否や、クロロの姿はかき消えた。ぽつぽつと並ぶ木々の一本がザッと揺れたのを最後に、ここには最初からウルズしかいなかったかのように静まり返る。
だが、クロロは確か『俺の攻撃を』 と言った。
ならきっとまだ近くにいるのだろう。そして攻撃とやらのタイミングを窺っている。いきなりの開始にこっちは色々と整理がつかないが、これも修業というのなら。
……それに武器禁止も、二十四時間だけみたいだし。
ホッとしたところでひとまず雑念に終止符を打ち、ウルズは周囲の気配を探るのに専念しようとした――途端、背中に嫌な圧迫感が張り付いた。
「――っ!」
体を翻しながら飛び退けば、ほんの鼻先でクロロの手刀が空ぶる。
避けてから、あらためて寒気がした。
武器を愛するウルズから見て、本物の刃物のようだと思った。尊敬すると共に、恐ろしい。思えばクロロが戦っているのを見るのは初めてだが、そのたった一振りで、降参、白旗、泣いて謝りたくなる。
これを、二十四時間?
無理すぎ! と思った瞬間、ウルズは草の上に突っ伏していた。
……へ? どゆこと? と手をつこうとすると右肩がみしみしと悲鳴を上げた。……あれ、俺、いつ象に踏み潰されたっけ。
ようやく体を起こしたウルズは、背後でそれを待っていたクロロを見てようやく理解した。ああ、何だ、師匠が後ろに回りこんで攻撃を叩きこんだだけか……ってこんなの誰が避けれんだ。
「はい、リセット」
よろりと立ち上がったウルズは、クロロの妙な言葉を聞いた。
可哀想な右肩をさすりながら、リセット? と首を傾げてみたがクロロは勿論マイペースだ。
「じゃあスタート」
「へ」
ぼけっとするウルズの視界からその姿が消える。いや実際には、消えたと思った時にはもうふっ飛ばされていた。ぼけっとしていたので、ガードする間もなくとてつもない重量がモロに、脇腹に。
地面に右半身を擦りながら三メートルほど滑ったウルズは、最後にごろんと転がって、反動でどうにか体を起こした。立ち上がれは、しなかったが。
――――ぜってー折れた!!
あまりの息のしにくさに、恐々手を脇腹にやる。苦渋に顔を歪めるウルズへと、上げていた片足を地面に下ろしたクロロはまた言った。
「はい、リセット」
良くない予感がじわりと生まれ、しばし、痛みと共に考えた。
“二十四時間、避け続けること”
“リセット”
これは……もしや、今日一日だけこれが続くのではなく――
「二十四時間、避け続けられるまで、何日経っても終わらないってこと……?」
「そう言わなかったか? じゃあ、スタート」
事もなげに言い放って、またクロロは消えた。今度はいきなり蹴りをねじ込まれることはなく、遠くの木の葉が揺れただけだった。ちょっと待って、と中途半端に手を伸ばしたウルズを静寂が取り囲む。痛いよーとむせび泣く、肩と脇腹を抱えてひとりぼっち。
あ、あの、これ……
終わる気が、しないんすけど。
涙目。
いや。いやいや。
最初の攻撃は避けられたじゃないか。
その手刀に驚きすぎて次の一撃を肩にくらい、続いて不意内すぎる一発を脇腹にくらったけれど。しかし最大限警戒していれば避けることくらいはできるのだ、きっと、多分、最初のアレがまぐれでなければ。
何もあの、この世の生き物すべてを蹂躙してきたような男を倒せというわけではない。
避けるだけ、逃げ続けるだけでいいのだ。
っていうか、できなきゃ、一生丸腰……それだけは耐えられない!!
最後の心の叫びで俄然スイッチが入ったウルズは、まばらにしか木の生えていないこの林の中でも特に開けた場所に移動した。その中央に陣取って、深呼吸。
自分を静めれば、周囲の、ありとあらゆる気配が浮き上がる。
そこに入り込む異常を察知すべく感覚を研ぎ澄ませ、また、察知と同時に体が反応するよう、四肢、特に両足に力を込める。……それと、心を静めることの両立はなかなか難しい。
両足だけ練、あとは絶、とか、そういうのできねぇかな。肩と腹も痛いし。体を休める時は絶って師匠も言ってなかったっけ。
それを少しずつ試みながら、警戒、そして臨戦体制を維持すること――
五時間。
「…………なんで」
なんで、ぱったり、来ねえんだよ……!!
一秒ごとに三百六十度気配を探り続けることを、長時間。それはとてつもなく精神力を擦り減らす作業だ。おまけに両脚の練もしっぱなし。
疲れを感じ始めた頃に一度、ずっと練してなくてもいざ襲われた時に素早く足にオーラを込めればいいんじゃん? とも考えた。が、きっと自分の実力では間に合わない。なので結局、五時間練だ。
そりゃあ、何事もなく残りは十九時間になったけど。
もう泣きそうなほど疲れ果てた。
あ……こうなるまで弱らせてから、集中切れたところで攻撃?
師匠ってばなんて策士……
なんて考えていること自体、集中を欠いている良い証拠だった。
人の視線。それを五時間ぶりに真後ろに感じ、
やばっ――!
戦慄して飛び退き、気配と正対する。その反応の遅れは致命的……だが、幸い手刀も蹴りも飛んではこなかった。
安堵と、これも策略ではという困惑を混じらせながら、ゆらゆら頼りなくなっていたオーラを練り直す。気配のする木の陰を注視したまま、他のあらゆる方向にもアンテナを張り巡らせる――しかし。
相手が自分の師ではないと気付いて、拍子抜けした。
木の後ろから姿を見せた青年は、見せただけで、近づいてくる様子はなかった。ただジッと、こちらを見つめるだけで。
何だろう。何か用かな。こんなところに人なんて来ないと思ってたけど、もしかして道にでも……
不意によぎったのは、策士なクロロの笑みだった。まさかあの人をおとりに、自分は別のとこから不意打ちするんじゃ……!
右を見る、左を見る、後ろを振り返る。
……か、考えすぎかな。
五時間の内に神経過敏になってしまったのかもしれない。取り越し苦労に息を吐きながら向き直ると、さっきの青年がすぐ傍に立っていて声が出るほど驚いた。
音もなく歩み寄り、長い黒髪をなびかせてたたずむ青年は、ウルズを見つめてこう告げた。
「クロロなら、町でお茶してたよ」
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クロロの修行、序の口編
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