6. 試験終了





 遂に八時間が経過した。シャルナークのケータイの時刻表示は、その日付をちょうど変えようとしている。依然沈黙を続けるスピーカー、そしてそれに苛立つ受験者達を内包する密室に、もうひとつ、ゆゆしき事態が追加されたのは二、三時間前の事だった。

「あー、あつー……」
 はたまらずTシャツの襟首を動かした。申し訳ない程度に首もとに届く風は、ひどく生ぬるい。それでも無風状態に戻るよりはマシなので、そのまま扇ぎ続ける。
 長袖の作業つなぎはとうに両腕を抜き、上は半袖Tシャツ一枚。足は勿論裸足。それからニット帽も取って、少しクセッ毛の銀髪を露わにし、やっと何とかこの暑さに対抗していた。

 もう、怒鳴り声は聞こえてこない。皆こんな調子だ。
 窓一つないコンクリートで固められた地下室、ようするに金庫のように密閉された中に、300人強がぎっしり詰め込まれているのだ。確実に濃くなる二酸化炭素、それが人体から放射される熱を吸収、保温して、ここはまさにサウナ状態だった。
 我慢比べかもねと言ったシャルも、さすがに額に汗を浮かべていた。マチも機嫌悪そうに、さっきから何度も髪を束ね直している。

 いやぁ、俺を含めてこれが当たり前の反応だよ、うん。
 涼しい顔してトランプタワーなんて作っちゃってるヒソカがおかしいんだよな。おーおー、無風だから八段まで綺麗に積み上がっちゃってるよ。
 あいつ人間か? あー、なんか自信ない。

「のど乾いたぁ……」
 自制がきかなくなっているのか、思い浮かんだ欲求がストレートに口をつく。
 するとシャルが、ダルそうに体を仰け反らしたまま、
「あ、俺のジュース飲む?」
 と缶を振りながら笑った。
「……バンタじゃん。飲むわけねーだろ」
「あれ、何にも入ってないんじゃなかったっけ?」
「………そ、それでも飲めるか!」
 が噛みつくと、シャルはなお可笑しそうに笑い声を上げた。あっちもいつもより、変にテンションが高くなっているようだ。

「の、飲まねーのか、それ……」

 おどおどと漂ってきた第三者の声に、シャルは笑い声を止めた。
 声の主を捜してみると、案外すぐ近くにいて二人してぎょっとした。恐ろしく汗を吹き出した、脂肪だらけの顔がずいっと近づき、二人は何となく数センチ身体を退く。
「の、飲まないなら、俺に……」
「ああ、このバンタ? うん、やるよやるよ」
 え、やるの?
 止めるべきか否か、の手が中途半端に彷徨っている内に缶はシャルから汗かき男のぷくぷくした手に渡り、フタを開けられ、逆さまにされたと思ったら一気に、中身が口の中に吸い込まれていった。
 ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ。
 のどが上下する音に、付近にいた数人が振り返った。
「お、おい、俺にもよこせ!」
「どうぞどうぞ」
 シャルは二つ返事で快諾し、マチが飲まずに転がしていたバンタを拾って手渡した。しばらくしてまた貴重な水分を飲み干す音が聞こえ、ついでに周りの飢えた目の数々も、こちらは生唾を呑み込んだ。

「お、俺にも……!」
「どけっ! 俺が先だ!」
「俺によこせ!」
 押し合いへし合い、こっちに辿り着くまでに足を引っ張り合って倒れ込んでしまった彼らの目の前にしゃがみ、にっこり笑ってシャルは言った。
「ここにはもう無いよ、元々貰った物だから。番号札177番、トンパって奴ならまだ持ってるんじゃないかな」

 彼らは我先にとすっ飛んでいき、やがて奥の方で更に人数を増やした争奪戦が始まったのが見えた。
「しっかし暑いねー」と、何の騒ぎもなかったように再びだらしなく座り込むシャル。その横ではちょっと葛藤していた。
 ……飲んでも、大丈夫だったしな……何にも入ってないんなら、俺ももう一本もらおうかなぁ……。
 だが、ふるふると首を振る。
 不安に苛まれた数時間前の事が蘇ってくる。もはやあれはトラウマだ。バンタのオレンジ味はもう飲めないかもしれない。
 マチが変な目で見ているのにも気付かず、は「くうっ」と拳を握りしめて呻った。





「──くそおっ!」

 それは、ジュースの騒ぎが収まってから数分後の事だった。
「おいコラアッ! 聞こえてんだろお!」
 騒ぎ以外はずっと暑さにやられた静寂が続いていたので、久しぶりの怒声に皆も、も振り向く。
 ひょろりとした、三十前後のその男が吠えた相手は──スピーカー。何となく理解はできた。確かにこのガランとした密室では、怒りをぶつける標的になりそうな物はそれくらいしかなかった。
「俺たちを蒸し殺す気かあっ? 何とか言いやがれっ!」

「あーあ、体力消耗するだけなのに」
 シャルが呟いた意見にしばらくは同意していただったが、
「……このおっ!」
 のれんに腕押しの状況に感情の高ぶりが頂点に達したらしい男が、"黒い固まり"──拳銃をスピーカーに向けて構えたのをみとめた瞬間、は立ち上がりざまに腰の鞭に手を伸ばしていた。

 ひゅんっ、としなった鞭が、熱気を真っ二つに切り裂いていく。
 男にトリガーを引かせる暇を与えず、鞭はその黒いL字型のフォルムに巻き付く。そしてが手首をかえしたのに従って、再び空を切って舞い戻ってきた。絡め取ったままの拳銃と共に。

 ヒュウッ、と口笛を鳴らしたのはシャルだった。それをきっかけに、瞬きも忘れていた周囲が一斉にどよめきの波紋を作り出す。
 武器を取り上げられた男もそれまでは呆然としていたが、誰が何をしたかを悟ると、すぐさま怒りの矛先をスピーカーからに変更した……のだが、

「バレッタ社のFF251! ショップのケース越しには見たことあるけど、手が出なかったんだよね……!」
 突如歓喜の声を上げたに、男はまたまた呆気にとられる事となった。

「たっまんないなぁ、このフォルム……! 反動を極力抑えた作りになってるおかげで命中精度はぴかいちだし、その上で総弾数十八発ってのは嬉しいね! ああっ、一度撃ってみたかったんだよなぁ……!」
 体の底から沸き上がってくる感動から、思わず頬ずりをしてしまう。その後ろで、マチが冷ややかに呟いた。
「……マニア?」

 そんな声に気付くこともなく、のマニア魂は暴走する。
 うっとりした目で拳銃を眺め倒し、グリップを両手に握りしめるたびに電気が走るような感覚を覚え、一人、恍惚の時間に浸る。放っておけばキスまでしそうな勢いだったが、それは元の持ち主が再び怒鳴ったおかげで叶わなかった。
「て、てめえ! さっきからふざけた真似しやがって!」
「……あ! わ、わりぃ、ずっと欲しかったヤツだからつい……」
 あはははっ、と頭を掻きながら謝る。いかんいかん、もの凄く人目を忘れてしまった。
 だがとて、マニア心がくすぐられただけで拳銃を取り上げたわけではない。
二割方は、別の理由だ。謝るのをやめ、天井を見上げる。
「でも、いくら苛々してるからってスピーカーは撃たない方がいいと思うぜ?  唯一の外とのつながりなんだし」

 その言いぐさが気に入らなかったのか。
「何だとぉ……!」
 真っ赤な顔を怒りに震わせた男は、別の銃を上着の内から取り出すと、流れるように撃鉄を下ろし、引き金にかけた指を折り曲げた。

「このガキ……! ナメるのもいい加減にしやが」

 それが男の最期の言葉になろうとは、誰が予想しただろうか。
 『が』の形をした口の上唇から左頬にかけて、長方形の薄っぺらい物が生えた。いや違う、逆だ、刺さったのだ。
 数秒遅れて右の眉から額にかけて、それから喉のど真ん中にも同じ物が突き刺さった。その衝撃で体が仰け反った時ちらりと、ダイヤのマークが喉元に見えた。

「ゴメン、手が滑った

 五十二枚──今は四十九枚かもしれないトランプが、彼の左手から右手のひらの中へ、そしてまた逆へ、紙同士が擦れ合う音を小気味良く奏でながら行き来していた。
 一瞬だけ、トランプを生やした男の死体が床に落ちる音がそれをかき消した。

 顔にスリーペアを作っている奇妙な死体。それを取り巻く受験者達は、一様に驚愕の色を滲ませていた。たまに漏れる息づかいだけが彼らの言葉だ。
 ねっとりとした静寂に、血の臭いがゆるやかに混じっていく。

 もしかして、俺を助けてくれたのか、ヒソカは? でも、何も殺しちゃうことは──
 鮮烈な生臭さに少し顔をしかめた時、不意に金属音を聞いた。にはすぐ分かる、折りたたみナイフを開く音だ。
 追うように、一つ、また一つ、種類は違うが似たような音が聞こえ始めた。
「キミたちじゃ、暇つぶしにもならないと思うけど──」
 トランプをきり続けるヒソカのたった一言で、武器を構えた男たちは僅かに萎縮する。その中間に位置してしまっているは、おいおい……と両者を見比べる途中、手で扇ぎながら呑気に見物しているシャルとマチを見た。
 だがすぐ、ヒソカの独特な笑い声に引き戻された。

「いいよ、相手してあげる

 言うや否や、ヒソカの手元からトランプが──放たれる前に、「うっ……」という呻きが聞こえた、何故か。
 え? 何だ? ヒソカのヤツ、もう何かしたのか?
 の目は反射的に、トランプが刺さった顔を探す。だが無い。いくら目を凝らしても見つけることができない間にも、呻き声はどんどん増えていく。
 気付くと、地下室が妙に広く見渡せるようになっていた。受験者のいくらかが、腹を押さえてへたり込み、立っている者が減ったからだ。いつの間にか地下室は三種類の人間に分かれていた。うずくまる者、ぽかんとする者、それらを平然と眺めている者。最後のは、ようするに壁がある奴らの事だ。

 ……な、なんだこりゃ……
 ぽかんとする者に属すの目に、ふと、そのどれにも当てはまらない人間が映った。
 汗を浮かべて、頬をひくつかせ、ゆっくり後ずさっている……トンパだ。

 が全部を把握しようとしたその時、汗で濡れた背中にひやりとしたものを感じた。風だ。手うちわなどではとても生み出せない涼やかな冷風が、背中を唐突に撫でてきたのだ。
 何だ?と振り返ったのとほぼ同時に、沈黙を守り続けていたスピーカーが、実に8八時間ぶりに音を発した。

『……えー、ごほん……お出口を解放致しましたので、お体に異常のある方はそちらから──』

 女性の声は、最後までは聞き取れなかった。
 うずくまっていた受験者達が一斉に出口へ殺到したからだ。放送の言葉通りに現れた地上へ伸びる階段(正しくはあの売春宿の一室)へ、彼らはあっというまに駆け去り、後にはぽかんとする者と平然とする者、二種類が取り残された。

「うわ……汗冷えてきた」
 両腕をさするシャルに目をやっていると、今度はウイーン、と機械音が響き渡った。天井の一部が棒に吊されて下がってくる。その上には、スーツ姿の女性が行儀良く佇んでいた。
 彼女の口から流れしたのは、アナウンスと同じ声だった。


「予定が少々狂いましたが……只今をもちまして、第一次試験を終了させて頂きます」






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バレッタ→べれった、ライキ→ないき、バンタ→ふぁんた……
この物語は実在の団体・商品とは一切関係ありません。