75.過去




 ゼビル島の鬱蒼とした森の中、数メートル先に、銀髪をふわふわ揺らして歩く少年がいる。
 キルアである。
 弟である。
 結局兄とは呼んでくれていないが、そこまで求めるのはまったく贅沢、記憶喪失の分際で分不相応というものだ。こうして後ろをついて歩いていても何も言われず、冷たく罵倒されも、鼻で笑われも、嘲笑もされないなんて、それだけで、もう……!

「うおおおお、幸せすぎる……!!」
「うるせーよ、一応試験中だっての!」
「はっ!?」
 我に返れば、夕日の中で仁王立ちするキルアが。
 ……まさか声に出ていたとは幸せってコワイ。

 そんなこんなで、結局一時間に一回はキルアに怒鳴られることになりながら、それでもたまに頬が緩むのは抑えきれなくて……それをじとっと見咎められたり溜め息を吐かれたりはするもののやっぱり可愛くて仕方がない弟と、は行動を共にしてもらっていた。
 二人とも合格条件はクリアしているが、一度は撃退したリリンや三人組が再び襲ってこないともかぎらない。一点目当ての他の受験者も然り、注意は怠れない。
 が、なにせ試験はあと五日もあった。
「どっか落ち着ける場所あったらいいな。キルアも疲れたろ?」
 前を歩く足が止まり、肩越しに青灰色の猫目がちらりと覗く。
「……別に。トリックタワーですっげー寝たし」
「え? 寝た? あそこで?」
 キルア達はギリギリの合格で、72時間のほとんどを塔攻略に費やしていたはずだが……と首を傾げても、十メートルほど先でどこかを見つめているキルアに答えてくれる気はないようだった。その方向に何か気になるものがある、というわけでもなく、単にから視線を逸らした結果だろう。
 目が合う時も、じっと睨むのを除けばほとんどが一瞥に近く、こういう風にキルアの横顔や後ろ姿を眺めることの方が多い。
 まだまだ、距離は遠いと思う。
 だが、こうして一緒にいてくれているということは、嫌われているわけではない証拠だ。加えて『オレのこと、怖くないの』 あの時の寂しげなキルアを思い出せばこちらも放っておくことなどできず、うっとうしい! と怒鳴られてしまうまでお兄ちゃんは甘やかす気満々なのである。
「ともかく今日はどっか休める場所探そう。日も落ちてきたし、腹も減ったし」
「だから俺は」
「キルアといっぱい話したいし!」
 目を丸くして、続きをぐっと飲み込んだキルアのその隙をここぞとばかりに突くべきだと思った。
 両側のポケットに手を入れてメモリーボックス発動。
「ほら、ご飯ならあるよ!!」
「……え、ちょ、缶詰持ち歩いてんのかよ」
「お箸とフォークどっちがいい?」
「いや、別にどっちでも……」
「ごめん、飲み物は今水しかないや……」
「って、ペットボトル? ポケットから? えっ?」
「でも枕ならあるよ!」
「ちょっと待てっ! どっから出した!?」
 そして取り出したぐっすり安眠低反発枕で、否、キルアが遠慮だの強がりだのを見せる暇も与えないくらいの不可解現象の連続放出で、見事彼を休息に誘うことに成功したのだった。




「美味しい?」
 お椀に口をつけるキルアを、湯気越しに覗きこむ。
 せっかくキルアと晩ご飯だというのに、缶詰をつつくだけじゃ味気なさすぎる。というわけで見通しの良い大木の根本に休息場所を確保したは、豚を焼いた時のように火を起こし、木組みに引っ掛けた鍋に“レンジで簡単二分でご飯”という商品名のレトルト米と蟹缶を開けてぐつぐつ煮込んでみたのだ。
 お椀によそえば蟹雑炊! を、また一口すすって、キルアは無感情に感想を漏らした。
「フツー」
「そっすか……」
 でもたまに息で冷ましながら、もう一口、二口と食べてくれているキルアににへっと顔が緩む。
「あっ、そうだ! 食後にフルーツ缶もあるからね!」
 自分の分をよそうのを中断し、パッと缶詰と新たなお椀とフォーク二本を取り出してみせると、キルアが箸を止めて茫然とする。
「何なんだよそのつなぎ……ポケットが四次元なの……」
 だが、すぐにぷるぷると頭を振って長く息をついた。
「いやもう枕と鍋が出てきた時点でツッコミ疲れた……」
 一応手品的なことにはしてあるが、キルアが何だか色々諦めてくれたので寝袋とか毛布とか出しても大丈夫かもしれない。

「つーか缶詰とか鍋とか持ち歩くって……ああ、試験だから?」
「んー、それもあるけど……」
 大半は放浪時代の名残である。ここ一年は師匠に殴り倒されるか病院にぶっ込まれるかだったので缶詰食から離れていたが、メモリーボックスの存在が、に備蓄を覚えさせたのである。
 武器も食糧も持ち歩けるなんて、ホント俺どこでも生きてけるなぁ。
 と、そんな内容を念のことを省いて説明すれば、キルアは非常に不可解そうな、驚いているような、疲れたような、それら全部を少しずつ混ぜた結果何とも言い表しがたい顔をしていた。
「……なんか、放浪とか、病院とか、缶詰備蓄とか、色々言いたいことはあるけど……」
 またため息と共に考えることをやめたらしいキルアは、質問を一つに絞ってきた。
「師匠って何」
「あ、俺のえーと、戦い方の師匠」
 まぁ、念以外にも叩きこまれたので間違いではない。
「記憶と一緒にそういうのも忘れちゃってたみたいで、去年の試験の後から一年間色々教えてくれたんだ」
 この説明も間違ってはいないのだが……いかんせん、言葉のチョイスがぬるいような気がした。教えてくれた? 叩きこまれた? 死線をさまようところまで追い詰められて魂の根底に刻みつけられた?
 何を言ってもあの日々を表すには足りないように思えてうーんと唸るも、キルアの興味はすでに“師匠”や“修業”そのものからは遠ざかっていたようだった。
「あのさー……」
 見れば、キルアの箸は意味もなくグルグル雑炊をかき混ぜている。その手が、止まった。
「実際、どこまで覚えてんの? つか、どこまで思い出してんの?」

「……んー」
 今度は、こっちが鍋の中の雑炊をおたまで無駄にかき回す番になった。調理の役目を終え、今は唯一の灯りとなっている焚火がその下でぱちんと弾ける。
「記憶を失った時のことは、何となく、思い出した。仕事先で変な鏡に襲われて、迎撃したけど……ダメだったのかな。その場所の近くの病院で目が覚めたのが、俺の、今の記憶の始まりなんだ」
「襲ってきた奴のことは?」
 うーんさっぱり、と笑って肩をすくめると、とは違いキルアは真剣に顔をしかめた。
 眉を寄せたまま雑炊をすするキルアが、何を歯がゆく思っているのか。その心中を何となく察してしまったは笑みを曖昧にする。

 そう願うのは、家族なら当然だ。だがそれは、からすれば複雑だった。

「俺も……一個だけ訊いていい?」
 オレンジ色の光が揺れる中でぴくりと猫目がこちらを向いたが、そのまま続きを待つようにキルアは言葉を挟まなかった。だから、そこから沈黙が長引いたのはひとえにのせいだ。
 聞いておきたい、が、知るのをためらう気持ちもある。
 記憶に関わることだからだ。
「……昔の俺って、どんな人だった?」
 微かに目を瞠って、丸めていた背を伸ばす、キルアの反応はそれだけだったのだが、は一人勝手にうろたえた。
 覚えてない、と告げるのは、昔の自分と繋がりがあった人を少なからず傷つける行為だ。それを気にするがあまり、わたわたとフォローするように言い足していく。
「その、ちょっとは思い出してるんだけど、やっぱちょっとだけで、人から聞いたのもそんな多くなくて……だから……」
 恐る恐る、窺い見る。
「キルアから見てどんなだったのかなーって、聞きたくて」

 どきどきとが心臓に負担をかけながら待つ一方、キルアはすぐには何も答えなかった。いいとも嫌だとも言わず、再び背を丸くしてお椀に向き直る。
 かといってそれをすすることもなく、見つめたまま、やがて、一言、
「あんまり、喋んなかった」
 椀の向こうに遠い過去を見るように、ぼんやりとしながら口を開いた。

「話しかけてもそんなに反応ないし、勿論あっちから話しかけてなんか絶対こないし、目も合わさないし、ニット帽で目ぇ隠してポケットに両手突っ込んで下見て歩いてっから、すれ違ってもこっちに気付いてんのかさえ怪しいっつーか、とにかく無口で、何考えてんのか分かんなくて。不気味に思ってる奴も多かったぜ」
「…………」
 あれおかしいな悪口しか聞こえてこない。
 キルアにこの質問をしたのは、純粋に過去の自分の人となりを知りたかったわけではない。どっちかというと知りたくない。目を逸らしたい。
 ただ、キルアがどれだけ兄を慕っているのか、それだけを計りたかったのだ。しかし、これは……
 予想に反してまさか仲良くなかったのか、と震えるに追い打ちをかけるようにキルアは続ける。
「まぁ、兄貴って誰にでもそうだよ。冷たいとか、相手が嫌いとかじゃなくて……興味が無いっていうのかな。兄貴にとっての他人って、いても、いなくても、どっちでもよかったんじゃねーかなぁ。仕事で必要最低限関わるだけで、後は自分に害がない限り放置って感じだったし。家族に対しては一応まるきり無視ってわけじゃなかったけど、でも自分からは不干渉で、やっぱたいして執着無いみたいで」
 ……何、その人。
 人に興味無いって何?
 家族にも話しかけないって何なのそれ大丈夫なの?
 たとえ望んでぼっちでいるにしても、どう考えたってコミュニケーション能力に問題があるとしか思えないこの“キルアのお兄さん”を、自身も自分と同一人物とは思えなくなり始めたところに、
「でも……オレは、それが心地よかった」
 キルアは、そう、視線を下げて呟いた。
「兄貴はオレに何も強制しなかった。オレが訓練から逃げてきてずっと兄貴の部屋に居着いても、追いやったりしなかった。ただ兄貴は部屋にいて、俺もそこにいるだけだったけど、特別何も話さなくても、オレには、それが」
 言葉が途切れた後も数秒その瞳は過去の思い出に浸かっていたようだったが、ハッと前触れ無く顔を上げると、その頬を真っ赤に染め上げた。
「ア、アンタのことじゃないからな! 昔の、兄貴の、こと!」

 は、心の中の前言を静かに撤回した。
 ……うん。やっぱ、キルアの言う“兄貴”は昔の俺ね。一緒にいて心地よかったっていうの、それ俺ね。
 勿論その記憶も無いしキルアが好きなのは記憶喪失の俺じゃないっていうのは承知のうえだけどそれにしてもむきになって真っ赤になって否定するキルアかわいい何これすっごいかわいい。
 ヨシヨシしたくなったのを耐え忍んで……しかし顔の緩みはまったく隠せていなかったらしく、歯がギリギリなる音が聞こえるほどの憤怒の表情で睨まれてしまった。
 やばい今の俺が嫌われる、と急いで話の方向転換を図る。
「えっと……あ、部屋に、訓練から逃げてきたって……訓練って何?」
「殺し屋の。アンタもしたはずだけど?」
 怒りの表情そのままに返されて、「す、すみません覚えてなくて……」 と縮こまるしかなかった。
 そんなキルアが怖かったからではないが、それ以上訓練についての話は広げられなかった。
 理由はそう、ヒソカがべらべらとの家のことを喋り、『あーっ!』 と耳を塞いだのと同じである。
 むやみに記憶が刺激されて、また頭痛と共に思い出してしまえばそれはメモリーボックスの容量の減少に直結してしまう。

 謝ったきり、記憶を刺激しない他の話題もすぐには思いつかず黙りこみ、は間を埋めるように雑炊をよそい始める。
 それを見つめるキルアは、怒りのボルテージこそ下げたようだが、眼つきの鋭さはそのまま残っていた。
 よそい終わって右手に箸を持った頃、隣から不満気に息を吐くのが聞こえた。
 実際、不満に思っているのだろう。殺し屋の訓練という話になった途端、が逃げるように話を途切れさせたことを。

 キルアはきっと、記憶が戻ることを望んでいる。

 あんなに安らいだ顔をして兄のことを話すキルアを思い返せば、容易に確信できることだった。
 家族なのだから、そう願うのは当たり前。こんなに慕っていたのなら尚更だ。
 キルアの望みは叶えてやりたい――でも。

 思い出すことは、メモリーボックスの容量が減ること。
 自分自身さえ目減りしていくような、俺にとって、怖いこと。

 咀嚼もそこそこに雑炊を飲み込み、その熱さに息を漏らす。そこに胸を圧迫する不安も混じらせ、一緒にいくらか外へ逃がして、そのまま口を引き結ぶ。
 思い出してやりたい、だけど、でも……怖い。
 そんな葛藤など、はキルアに打ち明けるわけにいかなかった。思い出したくないなんて、そんな傷つけてしまうようなことは言えるはずがない。

 しかし、不用意に呼び寄せた沈黙は、の戸惑いを雄弁に物語るものでもあった。座り直したキルアはその衣ずれの音だけで苛ついていることが分かり、二人の間の空気は加速度的に重さを増す。それは、飛行船での一件の後の、挨拶さえままならなかった時のものに似ていた。
 一度「おかわり、いる?」 と明るさを振り絞ってみたが、お椀は差し出してきたものの、それが要求した作業を終えるとまた元の沈黙に戻るという無駄なアプローチに終わってしまう。
 それでも、嫌だった。
 また、話すことすらできない関係に戻ってしまうことだけは。

「……でもさ、元から覚えてることもあるんだ」
 ことさらに明るい声で、はキルアの横顔に笑いかけた。
「二年前からずっと見てる夢があってさ。俺が仕事に出かけるとこに、キルアがいってらっしゃいしてくれて。お土産に靴買って帰る約束すんの」
 キルアの目がこちらを向いたことで、はさらに意気込んで続ける。
「多分、記憶を失う直前だったと思うから、約束果たせてないと思うけど……キルアのことは、ずっと夢で見てた。友達にこのこと話したらさ、きっと大事な思い出だったから覚えてるんだろうって。俺も、今あらためて思ってんだ」
 夢の少年と、目の前の弟。
 二人を重ね合わせて、たどり着く結論に、は照れてはにかんだ。
「キルアのこと、きっと大事だったんだなって」

 思い出すことは怖い。
 でも、昔の俺も、絶対に弟のことは大好きだったはずで、
 だからキルアのことだけは、もう少し思い出したいなあ……

 そんな共存しがたい自分の願いに困ったように笑むしかないの前で、キルアは――大事だ、と言われたとは思えないほど険しい顔つきで地面を睨んでいた。
「……んて、呼ばない」
 よく聞こえなかった。それでもその表情の変化には気付いて、
「キルア?」
 覗きこむように呼びかけてみれば、キルアは呼応するように顔中に露わにした不機嫌さを深めていく。

「覚えてねーじゃん」

 吐き捨てるようにそれだけ言うと、キルアは雑炊の残りを苛立ちのにじみ出た荒い所作でかきこんだ。こちらを見ないまま椀を地面において、「寝る」 立ち上がるなり背を向けてから離れていく。
 数メートル先の木に体を預けたキルアをこんな空気のまま寝かせたくはなかったが、何を覚えていないのか、それが分からない状態では口にすべき言葉も見つからない。
 口惜しくも諦め、は残された空のお椀を拾い上げた。
 キルアのために何かしてやりたい。喜んでほしい。笑ってほしい。
 けれど覚えていない自分では、結局何をしたってキルアを傷つけるだけなのだろうか。
 ……でも、と、は視線を落とす。
 椀を持つ自分の両手を、その感触を確かめるようにすり合わせる。

 キルアの望み通りに記憶を取り戻したとしても、その時キルアの前にいるのは、俺、なのかな。




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