81.兄弟
ゴンと、友達になりたい
キルアのそんな願いをリフレインさせながら駆ける廊下は、胸に走る痛みと相まって、酷く長く感じる。
なりたい、なんて言うなよ。
まだ友達じゃないみたいな言い方やめろって。
誰が見たって、キルアは、もうゴンの――
「寝ぼけんな! とっくにお前ら、ダチ同士だろーがよ!」
ようやく試験会場の扉を押し開けた途端、耳に飛び込んできたのはの言いたかったセリフそのものだった。
「」
最初にこちらに気付いたのはクラピカで、続いて、の思いを代弁してくれたばかりのレオリオが勢いよく振り返る。そして戸惑い気味にと視線を合わせると、次に広間中央のキルアを見、さらにその奥――能面のような表情で佇む黒髪の男とを交互に見た。
キルアとこいつが兄弟、なら、も――
こちらを見る人間のほとんどの心の声が聞こえるようだったが、構わず、そもそもそれに答える余裕を持ち合わせないままは会場に足を踏み入れた。
キルアがようやく来訪者に気付いて息を呑んだのが分かる程度にまで歩み寄ったは、その弟にではなく、黒髪の男に、訊く。
「お前が……イルミ……?」
「そうだけど」
あっけなく答えたギタラクル――いや、イルミ。イルミ=ゾルディックは、無表情のまま、を追い払うように手を振ってみせた。
「今キルと話してるんだ。お前に構ってる暇ないよ」
「話して……?」
そうは見えなかった。
自分の足か、冷たい床にか、視線を落としたまま縛られているかのように動かないキルアを見る限り、だ。
「一方的に、自分の考え押し付けてるだけだろ……!」
「それの何が悪い? オレとキルの兄弟の問題だ、首を突っ込まないでくれる?」
兄弟?
だったら――!
が主張しようとして、しかし喉の奥でためらったことを本人に代わって叫んだのはまたしても、この場で最も熱い人間だった。
「だったらコイツには口出しする権利あんだろ! てめぇがキルアの兄貴ってことは、とも兄弟ってことだろーが!」
「え?」
言いたいことを吐き出して肩で息をするレオリオを、きょとん、と見つめたイルミは、
「そういうつもりでいるのか?」
同じ目を、にも向けた。
「仕事でヘタを打って記憶喪失になんてなって、二年間ふらふらして、今だってどうせオレが兄貴だっていうはっきりした確信は無いんだろ? なのにお前、オレやキルと兄弟のつもりでいるの?」
「……っ!」
返す言葉に詰まったのは、さっきためらった理由を言い当てられたからだ。
思い出したわけじゃない。
鏡に襲われた記憶のようにその時の自分の思考や五感と共に思い出したのではなく、イルミのことも、キルアのことも、情報や知識から兄弟だと知っただけだ。
そんなことくらいで、兄弟のつもりでいるの?
そう言われれば。
言われてしまえば、何も言い返せない。
この二人にはあるのだろう家族として一緒に過ごした記憶も、には無いのだから。
…………けれど。
「まぁお前のことは後でいいよ。それより今オレはキルと大事な話をしてるんだ。引っ込んでてくれないか」
ふい、と興味なさげに目を逸らし、「どこまで話してたっけ……ああ、そうだ」 と斜め上を仰ぐイルミに、は再び敵意を宿した。
俺に記憶が無いことと、キルアとゴンのことは関係ない……!
「外野のメガネが言ってたね。ウチのキルともう友達だとか何とか」
そうだ文句あっか、とレオリオの眼光は強まる。
レオリオだけではない、クラピカやのそれを受けても、しかしイルミはどこ吹く風で「まいったな、あっちはもう友達のつもりなのか」 と顎に手をやり何やら思考するそぶりを見せる。そして彼がたいして間も開けずに口にしたのは、常人なら至るはずの無い恐ろしい結論だった。
「よし、ゴンを殺そう」
空気が凍りついた気がした。
たとえ言った本人が凍りつかせた自覚もなく、いい考えだとばかりに人差し指を立てていようとも、
「殺し屋に友達はいらない、邪魔なだけだから」
などと同じ声の調子で続けながら自然な動作で衣服から鋲を引き抜こうとも、それが当然のことだなんて微塵も思えるはずもなかった。
だって、キルアが。
キルアが、震えている。
「ゴンはどこにいる? お前、様子見てきたんだろ?」
そんな問いに、が馬鹿正直に答えるわけもなかった。ただ右足を踏み出す。鋲を片手にキルアの横をすり抜け、扉へ向かおうとするイルミの前を塞ぐために。
どけよ。
イルミの黒色の目が一瞬そう気押してきたが、すぐにそれはの後ろへとずれ、面倒くさそうな色へと変わった。
背後から聞こえた足音だけで、は十分理解できた。
誰かが自分と同じく、イルミの前に立ち塞がったのだ。
レオリオやクラピカだろう。もしかすると、ゴンを気に入ったと言っていたハンゾーも。
彼らを目頭に皺を寄せて眺めていたイルミは、やがて手前のへと視線を戻した。
「言っておくけど、邪魔するならお前も殺すよ」
びくり、と肩を震わせたのはキルアだった。
兄弟でも殺す。
滑らかに出た宣告に嘘偽りは微塵も無いようだったが、「あっ」 と緩い声でそれをぶち壊したのは当のイルミだった。
「そうか、ここでや彼らを殺しちゃったら、オレが落ちて、自動的にキルが合格しちゃうね。おっと、それはゴンを殺っても一緒か」
うーん、と一考。やがて、この場の全員を置き去りにしながらイルミは「よし」 と自分本位に解決策を導き出す。
「まず合格してから、ゴンを殺そう」
試合に勝ち、合格さえすれば、ここの全員を殺したとしても合格は取り消されない。
それをイルミがネテロに確認している間、はたして何人が奥歯を噛みしめ、拳を握りこんだだろうか。
…………けんな
「てめぇ、ふざ」
「ふざけんな……っ!!」
自分の中に抑えこんでおけなかった怒りが、今度はレオリオより先んじた。
どんなに手のひらに爪を食い込ませても煮え立つ怒りが収まらない。理解が出来なさすぎて吐き気がする。とりあえず合格して? ゴンを殺そう? 邪魔するやつみんな殺して? ゴンも? ふざけんな、ふざけんなお前、ふざけんな……!!
「ゴンは、キルアの大事な友達だぞ……レオリオだって、クラピカだって……それを、簡単に殺すとか言ってんじゃねーよ! 弟に友達はいらない、だから殺すとか、ざけんなよ……お前何なんだよ、めちゃくちゃじゃねーか……! キルアから大事なもん奪って、それでもお前キルアの兄貴かよ!?」
「そうだよ」
いけしゃあしゃあと簡潔に答えたイルミに、上がりきった血圧が血管を破裂させたかのように視界が真っ赤に染まる。自覚する間もなくは散々握りしめていた拳を振り上げていた。もう一方の腕は襟首を掴もうとしてイルミへ伸ばす。そうせずにはいられなかった。こんな奴がキルアの兄であっていいはずがない、キルアの大事なもの全部ぶち壊そうとするような、こんな奴が兄貴であっていいはずが――!!
「手を出したら」
その言葉と眼前に広げられた手のひらによって、は反射的に動きを止めた。
「キルの負けだ。確かそういうルールだったね」
我に返って、イルミを殴るわけにいかない現状をようやく正しく思い出す。一対一の勝負に他者は入れない。がキルアの味方をするような形で割入れば、反則負けになるのはキルアなのだ。
不合格。
キルアが、ハンターになれない。
「……っ」
耐えるということは、こんなにも苦しいことだったのか。噛みしめた上下の歯が砕けてしまうような、全身の血が刃になって皮膚を突き破ってくるような、それらをも凌駕するほどの痛みを心に伴うものだったのか。
くそ……っ
くそ……っ!!
こんな奴、こんなむちゃくちゃで最低な奴、キルアの兄だなんて二度と名乗れなくなるまでぶちのめしてやりたい……!!
なのに……っ!!
殴れず、しかし燃え盛るばかりの怒気に緩めることもできない拳を空中に留めたまま、は苦悶の表情で怨敵を睨みつけていた。
ルールという名の透明な壁の向こうで、イルミはなど意にも介さず、
「さて、聞いてたかい、キル」
顔を強張らせているキルアを見下ろす。
「オレと戦って勝たないと、ゴンを助けられない。友達のためにオレと戦えるかい?」
できないね。
間髪入れず、イルミは弟を否定する。
「なぜならお前は友達なんかより、今この場で、オレを倒せるか、倒せないかの方が大事だから。そしてもう、お前の中で答えは出ている」
イルミが朗々とのたまう以外静まり返っている試合会場に、キルアの喘ぐような呼吸がはっきりと響く。それは、イルミの言葉の正しさを表す以外の何物でもなかった。
「『オレの力では、兄貴は倒せない』」
余裕のかけらも見られないキルアの横顔を、汗が流れ落ちる。
「勝ち目の無い敵とは戦うな――オレが口をすっぱくして教えたよね。まぁ、こっちの男はキレイさっぱり忘れてるみたいだけど、お前はちゃんと覚えているな」
キル。
そう、念押しするように呼ばれた名前が引き金となり、キルアの右足が、震えを伴いながら“敵”から半歩遠ざかろうとした。そんなキルアの無意識の行動すら容赦なく制したのは、イルミの「動くな」 という一声だった。
「少しでも動いたら戦いの合図とみなす」
イルミの腕が、指先がキルアへと伸びる。
「同じく、オレとお前の体が触れた瞬間から戦い開始とする」
が思わずその間に割って入ろうとするが、イルミの『ルールを忘れたか?』 と訴えんばかりの視線一つで阻まれてしまう。
「も外野も手は出せない。キル、この状況で、戦いを止める方法は一つだけだ。分かるな?」
もう何試合も行われたこの会場で、それが分からない者はいないだろう。
キルアが、棄権することだ。
ハンゾーのように、ヒソカのように、自ら試合を終わらせる言葉を告げれば、戦いは避けられる。だが……
「だが忘れるな。お前がオレと戦わなければ」
大事なゴンが死ぬことになるよ
大きく目を見開いたまま硬直するキルアに、容赦なく迫っていく指先。ぞっとするほどの禍々しさを孕んだイルミのオーラはすでにキルアに達していて、きっと灼熱の豪火か極寒の冷気の中にいるにも等しい辛さだろう。
なら俺もオーラでイルミをふっ飛ばせば?
だめだ、キルアや大半の受験者には分からなくても、ネテロを始め試験官側にはお見通しだ。
自分には手出しができない。試合を止めることもできない。
キルアが酷く苦しめられているのに。
ゴンが危険に晒されているのに。
にとって心底大切な二人を、イルミが自分本位な考えで踏みにじっているにもかかわらずだ。
「……っ!」
全身も心も引きちぎれそうに悔しく、腹立たしいが、いくら怒りを沸騰させたところで結局のところその熱に耐えるしかない。
何もしてやれない。
俺はキルアの兄ちゃんなのに。
記憶は無いし、思い出してもあげられない。負い目だらけだけど、その分今の自分ができる限りのことはしてあげたいのに。
肝心な今この瞬間、何もできないなんて。
俺は、キルアの兄ちゃんでありたいのに……!
「……キルア」
それは、多分あがきだった。
手も足も出せない分、それでも何かしてやりたいとあがくように弟へと声を絞り出す。
「キルア」
二回目で、ようやくその耳に届いたのか後ろ姿が小さく反応を示した。
「こいつは、絶対俺がぶっ飛ばすから。ゴンは死なせないから、だから」
「無理だね。キルも分かってるはずだ。ゴンを守ろうと動いた奴、全員束になってもオレには適わない。全員殺されるってね」
「んなこと……!」
「キル、どうする。勝ち目の無い敵に挑むか、トモダチを見殺しにするか」
「てめ……!」
「さあ、キル。戦わないと、全員死ぬよ」
すでにオーラだけではなく、中指の爪先がキルアの髪に、流れる汗に、額に届こうとしている。微かに、キルアの歯のかち合う音がする。
「やっちまえキルア! お前のやりたいようにしろ!!」
レオリオの叫びも、
「キルア……!」
の歯痒い慟哭も、キルアの震えを止められず、その乾いた唇がイルミからの圧力が増すに連れてこじ開けられていく。
イルミは、キルアが友達の存在よりも、今目の前の敵が倒せるか倒せないかの方が大事だと言った。
あまりにもキルアを侮辱した、ふざけた言い分だ。
しかしそれは、
「……まいった」
キルアが自ら、その通りだと証明することになった。
かすれた声で。
覇気もなく。
「オレの……負けだよ」
「あーよかった、これで戦闘解除だね」
イルミは飄々と両手の平を打ち、嬉々とした表情を嘘くさく作って言った。ゴンを殺すなど嘘だと。ちょっとキルアを試してみたのだと。
そして、
「でもこれではっきりした」
憔悴する弟の頭を撫で、顔を寄せて、兄はこう言い捨てた。
「お前に友達を作る資格はない。必要もない」
ゴンの生死はどうでもいい。
初めからイルミは、キルアが自分の思想通りの殺人人形であると白日の元にさらけ出し、キルア自身に突き付け、分からせることが目的だったのだ。
お前の心を持たない殺し屋だと。
骨の髄まで。
最低だ。
「……もう、いいよな」
うつむいたまま、もはや体を震わせることもしなくなったキルアの隣で、はオーラを立ち昇らせた。念は使うな? 知るもんか。
「俺も、こいつも、合格した。これから俺がいくら殴ろうと、ただの、兄弟喧嘩ってやつだよな……!」
もはや我慢をする意味も無い憎しみを湧き上がるままに発すれば、自分の握力で自分の拳が壊れてしまいそうだった。それをキルアの兄だなんて到底認められない男に叩き込んでやらないと自分が正気を保てない。
は遠慮なく床を蹴った。
同時に振り上げた右腕は、一秒と立たない内にイルミの頬へと迫る。感情の無い、それゆえに相手を馬鹿にしたように映る彼の瞳がこちらを向き――その前を彼の硬をした腕が遮った。
「――っ!」
我を忘れて打ち込んだ一撃が防がれたに、“次”に対処する冷静さは無い。
防いだのとは逆の腕で難なく繰り出されたイルミのストレート、それは見事にこちらの頬にねじ込まれてはあえなくふっ飛んだ。
唇に滲んだ血を手の甲でこすりつつ、すぐにまた歯を剥くも、イルミはといえばまるで服についた虫でも払ったかのような、とるにたらないモノを相手にする顔で言ってのける。
「あ、反撃しちゃいけなかった?」
「てめ……っ」
「そこまでじゃ」
この場の最高責任者の一声によって、は練りかけていたオーラを霧散させた。
「合格者同士で何をやろうと合否には影響せんが、まだ試験中じゃ。邪魔んなるから外でやれい」
そう言われてしまえば、未だぶつけきれない激情にどうにか蓋をするしかなかった。イルミてめぇ表へ出ろ!!と啖呵を切りたいところではあるが、今は、戦わない選択をしたきり口を開かなくなったキルアが佇む試験会場から、出ていくことなどできなかったのだ。
壁際に戻ったキルアはレオリオやクラピカの言葉に応えるどころか、顔を上げることすらしなかった。次の試合のためにレオリオは後ろ髪を引かれる様子ながらも傍を離れていったが、キルアはそれを見送ることもしない。
その、空いた隣へ近付くが――何と声をかけるべきかは迷い、結局、ただ見つめるに留まった。
うつむくキルアはまるでそこにいないかのような存在の希薄さで、物言わぬ抜けがらと化してしまっている。
「……キルア」
勿論返事は無い。
そうするとに沸いてくるのは、キルアを追い詰めた兄もどきへの怒りだった。
そんなにもゴンが気に入らないのか。キルアに友達がいてはいけないのか。殺し屋に友達はいらないとか、資格がないとか必要ないとかほざいていたが、だったら俺はどうなる? 俺にも、俺にだって――!
『オレ、人殺しで飯食ってるけど、こんな奴が友達でいい?』
再度頭に血を昇らせかけたの中で、短い金髪がさらりと揺れた。
その幼げながら整った顔立ちと、記憶に残るまぶしい笑みにハッとする。
「……なあ」
膝を付き、見上げたキルアの表情は、覗きこんでみても照明のせいで陰って窺えない。
それでも、その生気の感じられない様子に少しでも変化があることを祈って語りかける。
「俺にも……友達いるんだ」
最終試験前に、あれは友達ではなく師匠への電話だったが、『なわけねーじゃん、今のが。つーか友達とかいんのかよ』 と全否定されたっけと思い出す。その時の、ゴンと楽しそうに連れ立っていたキルアの姿と共に、思い出す。
「去年の試験で、キルアとゴンみたいに会って、友達になったんだ。そいつ、俺が殺し屋でも友達になってくれるって言った。そいつもおおっぴらに言えない仕事してるけど、俺だってそんなの関係無かった。ゴンも、そうなんだろ? キルアの家のこと聞いたって、何も変わらなかったんだろ? だったら、だったらさ……っ」
声が震える。
気付けばはキルアの腕をすがりつくように握っていて、レオリオとボドロの試合開始の声に被さるのも構わず訴えかけていた。
「殺し屋に友達がいちゃいけないなんて嘘だ。キルアは、ゴンの友達でいいんだよ」
「違う」
そのかすれた呟きは始まった試合の音に紛れ、空耳なのか、そうじゃないのか、判断しかねたは呆けた顔でキルアを見る。
今まで閉じられていたその口は、そこで確かに開いていた。
「……言っただろ。あんたは、もう昔の兄貴じゃない。オレは……」
ただその声に力は無く。
きっと聞こえたのも、だけ。
「オレは、兄貴みたいに、変われない」
そしてするりと拘束を逃れたキルアを、は引きとめることができなかった。
諦めるような、絶望するような言葉を置いていった弟は、二歩進んだところでそのスピードを劇的に速めた。はそれを目で追いかけた時には既にキルアの右手はボドロの体を貫いていて、その赤い渋きに、血に濡れた弟に、また何もできなかったことだけを思い知らされた。
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